無意識の深みにあるもの

2020.11.02 08:00

 語彙力は大切だ。毎月、愚稿を記すたびに思う。すっかり類語辞典を手放すことができなくなった。もとよりそれだけでアホは隠しきれず、朝三暮四に過ぎないのだが(「朝令暮改」は知っているがコレは人生初使用だ!)。一方、他者との会話によって気づくこともある。本人は無自覚に使用しているものの、思わずこちらが気に障ってしまう言葉。それは「要は」。

 会話のキャッチボールを経たうえでの登場ならば受け入れ可能だ。しかし、話し始めから「要は」と来る。そうなると、「なんでそんなことも知らないの」と言われているように感じてしまう。筆者だけかもしれないが、とても不快な気分にさせられる。経験上、自分の意見や主張が正しいとの思い込みが激しい人に多い。

 そんな人に限って、お金配りおじさんを自称するM澤氏になぜか媚びる。ツイッターのタイムライン上で熱心なコメント付きでリツイートしている状況に何度か遭遇すると、得も言われぬ香ばしさが漂う。なるほど、周囲をおもんぱかるタイプではない人なのだ。そう確信することで優しく接することが肝要と思うようになった。語彙力の問題というより口癖に近いかもしれない。

 「だから」から始まる会話もツラい。やはり主張が激しく頑固者。周囲に自身が理解されていないと感じているのだろう。高齢者に多い。気の毒にさえ思う。他方、同じ順接の接続詞を伴う発語で、「ですからですね」という発展形に遭遇したことがある。トンデモな丁寧表現とのケミストリーは微笑ましさを生む。余談だが、電話口で珍妙な敬語を発してしまう人はどんなオフィスにもいるものだ。「宿泊の予約をさせていただいているお会社の専務のお娘様に、わたくしめから御差し入れを……」。ここまで来ると様式美を感じ、立派な個性と称えざるを得ない。

 「要はマン」と「だから野郎」に気づきを授けられることを願い、いまさら本題である。「こんなときだからこそ、〇×を――」。あらゆる媒体で最近よく見聞きするようになった。そのたびにインチキ臭さや偽善を感じずにはいられない。志は尊いと思う。だが、コロナ禍でなければあなたの掲げる理想を実現する気持ちはないのかと問いたくなる。面倒な条件を前提としたスローガンは嫌な感じに聞こえてしまう。本当のどん底を知らずして「ピンチをチャンスに!」などと感覚的にのたまう人間と同じレベルで気持ちが悪い。

 傍らの類語辞典に「だからこそ」は載っていなかった。ネット情報に騙されたくないので、こんなときは一次情報か専門家に頼る主義だ。グーグルスカラーで調べると、やはり真理を追究する学者が存在した。「XだからこそY」の最も典型的な意味関係において、「原因であるXは望ましくない事態のため、Yには同じく望ましくない事態が予測される。だが、実際にはその逆で望ましい事態が発生することをYで述べる」とのこと。「こんなときだからこそ『ありがとう』の気持ちを届けたい」。使い方は問題なさそうだ。

 一方、「こんなときだからこそ『共同幻想論』を読み返した」「こんなときだからこそ過去のパンデミックについて学んだ」という、XがYの原因や理由であることを強調する使用例もある。「こそ」という助詞が付くことで、「だからこそ」は二重の含意を獲得する。

 「要は」や「だから」と同じで、使用する際のTPOにマッチしていないから引っ掛かるのだろう。先のフレーズは使い方こそ合格でも、セールスのキャッチコピーに使うには配慮を求めたい。「高級ホテルに泊まりませんか」「地方を元気に」。スナック感覚でYに言葉を紡いだその先に何があった?だから言わんこっちゃない。

神田達哉●サービス連合情報総研業務執行理事・事務局長。同志社大学卒業後、旅行会社で法人営業や企画・販売促進業務に従事。企業内労組専従役員を経て、ツーリズム関連産業別労組の役員に選出。18年1月から現職。日本国際観光学会第28期理事。

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