とくべつなこと

2023.09.18 08:00

 バンコクからのショートトリップ先として人気のあるアユタヤを訪れた。1991年の世界遺産登録からは初訪問。大きなビルが立ち並び渋滞と喧騒に1日中悩まされるバンコクとはまるで違い、のんびりとした雰囲気は変わらずで、駅前から延びるマーケットのたたずまいも、遺跡エリアへの数分の渡し舟の生活感丸出しの風情も田舎そのもの。なるほど、人は時としてこうしたところへの旅を自然と選びたくなるものだ。

 夏休み真っ盛りの8月中旬。欧米の観光客ばかりだと思っていたが、意外にも日本人観光客の姿が目についた。しかもみな若い。男性、または女性同士のグループ、あるいはカップル。ここで欠かせないコンテンツ、象に乗ることができるエレファントパレードで何人かと話をし「Youはなぜ海外へ」とやってみたが、答えはみな普通に「夏休みだから海外旅行」だった。

 理由はいくつかあって、この時期にしては日本からバンコクへの航空運賃が安かった、円安ではあるがそれをカバーできるほどに物価が安い、そして誰もが口々に言うのは「なにせ映える」。そう話をしている間に別のグループの女子は夕方に行くマッサージの予約の電話をしている。流暢な英語ではないが、なんなく3人分の予約ができたようだ。

 街はひなびた田舎のままだが、道順はグーグルマップが教えてくれるし、最新のスマホならカメラをかざすだけで看板を翻訳してくれるようになり、難解なタイ語も恐れることはない。暑いなか遺跡巡りに歩き疲れたら、Grab(グラブ)を使えばたちまち車がやってくる。行き先を言う必要もないし、料金は確定していてぼったくられる心配もない。水1本買うにも小銭とにらめっこする必要はなく、タッチ決済のクレジットカードで用足りる。かつて難関とされていたタイ国鉄の列車ですら、いまや海外からネット予約が可能になった。

 こうしたデジタルインフラが世界標準になりつつあるなか、これらと無縁の「海外は文化も風習もまるで違うし何が起こるかわからない」的世代をターゲットに安心と信頼を武器にすべてをお膳立てし、ありとあらゆるセーフティーをかけていた旅行会社の団体旅行は相当に苦戦するだろう。かつては旅行会社で頻繁に海外旅行説明会が行われていた。そこで頻発する「水道水は飲めますか」の類いの質問に答えていた時代が懐かしい。この日、日本人のシニア世代の観光客をアユタヤで見かけることはなかった。

 日本とは違う文化と風習。その差分を埋めることが日本の旅行業の収益源だった。携帯レンタル、カタログギフトの土産、専用車でのオプショナルツアーにミールクーポン。これらはマーケットが縮小するだけでなく汎用化されたデジタルインフラに取って変わられた。新興の、いわゆるタビナカのデジタルビジネスの多くも、やがてあっという間に世界を席巻するプラットフォーマーの軍門に下るだろう。「海外旅行は特別」をベースにしたビジネスはそもそも成り立たないはずだ。

 翻って日本のインバウンド。地域へ旅人を誘う仕事をしていると人はなぜ旅をするのかという本質を見失いがちになる。コンテンツは重要だ。しかしその魅力的なコンテンツを楽しむために、その何十倍ものストレスをかけなければ移動も食事もできなければ旅する動機すら失わせる。

 8月の週末、夜の軽井沢はタクシーを呼んでも2時間待ちだった。ようやくライドシェアの議論が加速するらしいが、もう何周も遅れている。議員の海外視察で観光地の写真がアップされただけで総叩きされるほど、日本ではいまだに海外旅行は特別(とくべつ)なこと。だからいつまでたっても周回遅れのままなのだ。

高橋敦司●ジェイアール東日本企画 常務取締役チーフ・デジタル・オフィサー。1989年、東日本旅客鉄道(JR東日本)入社。本社営業部旅行業課長、千葉支社営業部長等を歴任後、2009年びゅうトラベルサービス社長。13年JR東日本営業部次長、15年同担当部長を経て、17年6月から現職。

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