うたをわすれた

2023.07.17 08:00

 代々木公園の入り口に「べからず」を列挙した看板がある。花火・たき火・バーベキュー、動物への餌やり、ラジコンの操縦、球技にスケボー、大音量での楽器演奏、などなど。ご丁寧にもピクトグラムを添えて誰にでも分かるようにはなっているがバツ印のオンパレード。これから公園を楽しもうとする人々の興は大いに削がれそうなものだが、致し方ない面もあるだろう。

 あらためて思う。日本はなぜこんなに注意書きの看板や張り紙が多いのだろう。海外を旅してみると、手書きの注意書きだらけというシーンはそれほど多くはない。「エスカレーターは立ち止まって」「現金のみ」「両替お断り」。最近では「人手不足のため、時間がかかります」と出す飲食店が増えた。

 公園、駅に空港、飲食店。われわれが日常を過ごす多くのシーンに出てくるこれらの紙は、当初からあったものではなく、たいがいは後から追加されたものだ。当初は考えもしなかった「想定外の出来事」。商売をする側と客とのせめぎ合いの中で生まれたものがほとんどのはず。だからどういう経緯からこの紙に至ったのか想像するに難くはない。ただ気になるのは、果たしてこの張り紙が想定外の行動に出る客側を制御するほどの効果を生み出すものなのだろうか、という点だ。

 かつて駅の現場を管理する仕事をしていた時、社員とこういう議論になった。当時はみどりの窓口の切符の発券プロセスが現金とクレジットカードで異なっていた(いまは同じ)。発券した後でお客さまにカードを出されるとすべてやり直しになる。社員たちが出した結論は窓口に「カードご利用の際は先にお申し出ください」という紙を張ることだった。懸命に議論した彼らには申し訳なかったが私はその案を却下した。それは発券前に「お支払いは現金でよろしいでしょうか」と必ず声をかけると決めればいいのでは、と。

 わずか2秒程度の声がけを誰もができるようにするだけで接客シーンにおける互いのストレスは回避できる。それを怠り安易に張り紙で伝えようとするのは日本の恥じらいの文化やいわゆるアリバイづくり文化から来るものなのだろうか。ロボットが「いらっしゃいませ」とあいさつをするようになり、タブレットで注文し、画面に現れる小さな文字の注意書きを見逃し、店員は呼べども来ない、という光景が当たり前になっていくなかで、人間が奏でるべきホスピタリティーの領域を安易に捨て去ろうとしてはいないだろうか。

 駅で、道端で、外国人観光客がスマホや地図を首をかしげながら眺め、キョロキョロしている姿はよく目にする。しかし彼らに「May I help you?」と声をかける人はとても少ない。海外だと少なくとも立ち止まり、あるいは声をかけてくれる現地の人はもっといる気がする。もはや東京五輪招致でパワーワードとなった「おもてなしの国」と胸を張れないのでは、と感じることしきり。さらにコロナが新たな言い訳に。

 スマホのアプリはあらゆるものを解決してくれるように見えて、リアルな世界のアイコンとは全く共存していない。特に日本は道路名や住所表示も特殊で、列車名が「のぞみ」「はやぶさ」と愛称になっているという、世界でも最も難解な国であることの自覚も必要だ。

 東京駅で声をかけてみたら「山手線と京浜東北線、どっちが秋葉原に行くか」だった。そんなことを書いてある張り紙はもちろんないし、張ったところで見てもくれないだろう。

 日本人の魅力は自然と食と人、とインバウンド招致ではよく言うが本当にそうだろうか。歌(うた)を忘(わす)れたカナリアばかりになって、そのうち見捨てられたりはしないだろうか。

高橋敦司●ジェイアール東日本企画 常務取締役チーフ・デジタル・オフィサー。1989年、東日本旅客鉄道(JR東日本)入社。本社営業部旅行業課長、千葉支社営業部長等を歴任後、2009年びゅうトラベルサービス社長。13年JR東日本営業部次長、15年同担当部長を経て、17年6月から現職。

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