はしりつづける

2022.11.14 08:00

 10月1日、福島県と新潟県を結ぶJR只見線の会津川口/只見間が開通、実に11年ぶりの復活を遂げた。東日本大震災のあった11年の7月、豪雨災害により線路と並行して流れる只見川にかかる橋梁が多数流出し、長期間の運休を余儀なくされていた。

 復旧への道のりは険しかった。狭隘(きょうあい)な場所にかかる橋の再架橋をはじめ、膨大な復旧費が見込まれるなか、そもそも鉄道で再びつなぐかバスなど別の交通機関で代替するか、さまざまな議論がなされた。結果として鉄路での復活を望む地域の強い意向を受け、災害時の復旧工事費用の国庫負担を黒字会社(当時)のJRにも適用できるよう法律が改正され、線路や駅などの鉄道施設を県が保有しJRが運行を担う、上下分離方式による復活となった。津波で駅や線路ごと流された東北の太平洋沿岸の各線もすでに何らかの形ですべて復旧しているのと比較すると、本当に長い年月をかけての再開である。

 いま、赤字ローカル線が各地でさまざまな議論を呼んでいるが、当時はまだそのような空気感ではなかった。運休前も1日数本しか列車のないローカル線中のローカル線の復旧に多くの関係者の腰が引けたのは無理もない。一方でかつての只見線はそのローカル線であることが多くの人を引きつけた。四季折々の風景は「乗り鉄」だけでなく、バスツアーにも組み込まれるキラーコンテンツとなっていた。紅葉や雪景色の中を走る小さな列車の風景は、只見線を撮り続けた写真家の写真により台湾はじめ海外各地へと拡散し、多くの訪日外国人も訪れるようになった。11年という長い期間の運休。待ち望んでいた人も多いだろう。

 とはいえ、観光客だけを頼りにした鉄道再生は過去に例がない。多くのお客さまを大量に輸送するという、鉄道の特性が発揮できない路線で事業として維持するのは困難を極める。只見線は地域にとって新たなチャレンジ。県のほか会津17市町村も運営費を負担し、地域で支える体制がつくられた。

 秘境と言ってしまえばそれで終わり。単に鉄道や列車を観光資源と扱うだけでなく、地域全体にどう人を呼び込むか、関係人口をどう作るか、コンテンツを組み合わせどう付加価値をつけるか、そしてどう高く売るか。1日数本の乗客がもたらす運賃では足らない。ただ走るだけの鉄道にしていけない。本当の旅はこれからだ。

 この10月、日本の鉄道は150年を迎え各地でさまざまなイベントが繰り広げられている。新橋と横浜の間を約1時間かけて走った最初の鉄道は当初、靴を脱いで乗車した客の靴を置き去りにして走ったとか。昭和初期までに現在のほとんどの「本線」が敷設され、1964年、東京五輪にあわせて東海道新幹線が開通、88年には瀬戸大橋と青函トンネルで日本全土が鉄路で結ばれる。鉄道の歴史は人の移動と旅の歴史。家族旅行も修学旅行もフルムーンも、鉄道が可能にした国内旅行のムーブメントだ。

 その日本の鉄道がいま岐路に立つ。この半世紀で高速道路網が日本中を覆いつくし、点と点を高速で結ぶことができるようになった一方で、人の動きはマスから個へと切り替わり、県境は気にするほど遠くなく、都会と田舎の空気もかつてほどの差はない。そして人口減少。街と街、人と人を結び、異なる地域の文化を交流させてきた交通機関の、次の役割は何なのだろう。

 只見駅前では地域の多くの方々が集い、再開を祝い、列車に手を振ってくれた。走り始めたら、ずっと走(はし)り続(つづ)けるのが鉄道の使命。雨の日も雪の日も、そしてお客さまがゼロでも。これからもずっと手を振り続けていただけるだろうか。

高橋敦司●ジェイアール東日本企画 常務取締役チーフ・デジタル・オフィサー。1989年、東日本旅客鉄道(JR東日本)入社。本社営業部旅行業課長、千葉支社営業部長等を歴任後、2009年びゅうトラベルサービス社長。13年JR東日本営業部次長、15年同担当部長を経て、17年6月から現職。

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