しづこころなく

2021.04.19 08:00

 3月末日の東京駅は転勤先へ向かう人とそれを見送る同僚や家族、入社式へと向かう新入社員の一団などで賑わいを見せていた。昨年はオンラインだった当社の入社式も今年はリアルに行うことができた。不安げな顔をしながら会社に集まってきた彼らに、直接語りかけることができて安堵する。

 でも相変わらず鉄道の利用は全く戻っておらず、特に新幹線の空席が目に付く。一方で伊豆へ向かう全席グリーン車、個室のあるサフィール踊り子号はカップルや家族連れで結構埋まっている。伊豆は東京から近く、座席間隔が広く「密にならない」と報道されたせいだろうか。

 1年前に予想したこととはだいぶ違う世の中になった。外せるだろうと思っていたマスクは相変わらずそのまま。対面の打ち合わせに躊躇し、飲み会という言葉は禁句になった。戦後のモノづくりを通じて先進国へと急激に発展した日本が、新たに手にするはずだったサービス業主体の産業構造への転換と、五輪を通じてその名を内外に知らしめるはずだった観光立国の旗印は脆くも崩れ落ち、どこかへ消えようとしている。

 何度か取り戻すチャンスはあった。旅が日本の、特に地域の経済を大きく支えていることを誰もが実感したGoToトラベル、福島から予定通りスタートした聖火リレー。しかしこれらも、誰が仕組んだかわからないネガティブな空気によってその価値は大きく損なわれ、GoToは復活の兆しが見られず、聖火リレーは現在地が積極的に報道されないまま粛々と進んでいる。

 人為的に引いたに過ぎない県境を越えるためには、それぞれの県知事の意向を確認せねばならず、地域によってはまるでパスポートが必要かのように慎重にならざるを得ない。倒産や廃業が増え、雇用の悪化が進んでいるにもかかわらず、観光団体や経済団体の情報発信は沈黙したまま。一方で依然専門家かどうか疑わしい医療関係者の話だけを連日テレビで聞かされ続けている。

 近場の伊豆へ行く密にならない個室やグリーン車が、他の移動手段と比べて感染リスクが低いとも、もちろん高いとも証明されているわけではない。しかし日本中の観光が沈黙するなかで熱海や箱根、都内の桜の名所へは意外にも人が押し寄せ、週末の道路は渋滞している。渋谷のスクランブル交差点の映像と携帯会社のデータを使った、「移動するな」的な報道とは裏腹に。消費行動は心理学。実はすでに人は情報を選択し自分自身の責任で最適な行動を取るという、本来の姿に近づいているのも事実だ。

 その結果がもたらすのは分断された日本の姿だ。かつてのように、誰もが名を知り行き方を知る観光地の人出は戻るだろう。しかし、「いまは来ないで」と発信した地域が手のひらを返して「ぜひ来てください」と言うことに理解は得られにくい。そもそも旅先に選択されない、選択されにくい地域は再び観光客が訪れるようになるまでに相当の時間と努力を要する。それまで地域の観光のインフラたる旅館や、それを束ねるDMOが生き残っていけるのか。われわれも含め当面の成長領域として地域創生ビジネスへ舵を切る会社が相次いでいる。ただ、それを進めるほどの地方人材はいるのか。しばらくの間、自問自答を続けながら取り組まざるを得ない。

 「久方の光のどけき春の日にしづ心(こころ)なく花の散るらむ」。百人一首の秀歌を詠んだ紀友則の気持ちになってみる。今年も花見を満足にできないまま、東京の花はあっという間に散ってしまった。桜前線が北上するうちに人の気持ちと行動が変わり、どこかで人々の日本古来の楽しい花見の光景を見ることはできるのだろうか。

高橋敦司●ジェイアール東日本企画 常務取締役チーフ・デジタル・オフィサー。1989年、東日本旅客鉄道(JR東日本)入社。本社営業部旅行業課長、千葉支社営業部長等を歴任後、2009年びゅうトラベルサービス社長。13年JR東日本営業部次長、15年同担当部長を経て、17年6月から現職。

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