<寄稿>福島県浜通りの足跡を描く 人をしのび、人を語る

2023.02.28 12:30

復興のシンボルJヴィレッジからの早暁

 早くも12年の歳月がたとうとしている。儲光羲の詩「献八舅東帰」に、世の移り変わりの激しさを詠んだ一句、滄海桑田(そうかいそうでん:滄海変じて桑田となる)がある。日本語にすると、「十年一昔」といったところだろうか。しかし誰かにとっては「一昔」もの時間が流れていても、何ひとつ変わるものはなくいまもなお時計が止まったままの人もいる。

 11年3月11日、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の大地震が発生した。これにより岩手、宮城、福島県を中心とする太平洋沿岸部は巨大な津波に襲われた。中でも福島県東部の太平洋側の沿岸地域を指す浜通り(相馬・双葉・いわきエリア)はとりわけ甚大な被害を受けた。それもそのはず、そこには福島第一原子力発電所があったからである。原子力発電所事故による避難指示区域とされた7市町村(南相馬市、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村、飯舘村)の一部は、いまだに帰還困難区域として設定され、痛ましい姿が当時のまま残される。

津波で破壊された水産資源研究所

 震災からすでに12年。原子力発電所事故の経緯と現在の状況を知るべく、インターネットで「東日本大震災」のキーワード検索をした。最初に「特集東日本大震災-防災情報のページ-内閣府」のウェブページが目に付いた。しかし、大震災をさらに悲惨なものにした原子力発電所の事故と関連付けた説明は、残念ながらそのページには見当たらない。筆者にとって東日本大震災は、地震と津波、そして原子力発電所事故によってもたらされた災害の認識が強かった。

数字を欠いた階段

 関係者の話によると、3月11日夕刻、津波が引いた後、すぐに消息が付かない人々の捜索が始まったという。しかし日はまだ短く、二次被害を防ぐため、間もなくして捜索は一旦中止となった。翌日、いざ本格的な捜索が始まろうとする最中、福島第一原子力発電所の事故が起き、人々をさらなる悲しみと絶望に陥れた。放射性物質流出の危険から、多くの地域が立ち入り禁止となった。どこかで救助を待っているかもしれないわが子や愛する家族を振り返ることもできず、避難を余儀なくされた。誰に人の行動や思いを止める権利があるのだろうか。亡くなった方も残された方もどれほど無念だったのだろう。自分の身に置き換え、涙と怒りがこみ上げてきた。

 時折、ニュースや報道から気になってはいたものの、行く機会と勇気がなかったのだろうか、震災以降現地を見ることはなかった。ところが2月末、筆者が所属する日本国際観光学会(崎本武志会長)から復興視察ツアーに誘われた。3日間の日程で原子力発電所がある周辺市町村(浪江、双葉、大熊、富岡、楢葉など)を訪れた。

 最も印象深かった場所は、最初に訪れた浪江町の請戸小学校である。海岸からほど近い場所に位置する小学校は震災遺構に指定され、当時の様子を語り継いでいる。校舎の一角には当時の状況を伝える展示室がある。2階に上がる階段には、いかにも小学校らしい数字がアルファベットで書かれたシールが貼られていた。

「2 two(ツー)」が剥がれ落ちた請戸小学校の階段

 いつ、なぜ剥がれ落ちたかは分からないが、「2two(ツー)」と書かれていたと思われるボードが1枚欠けていた。復興と再建に向けて一段一段と上っていく。ある者は2段目の階段を上ることができずまだ「1」の中にいる。ある者はそれでもゴールを目指して3段目の階段を上っていく。筆者にはどこか震災とその後の人々の思いやまちの様子が、数字を欠いた階段とオーバーラップしていた。

 まちにはまだ帰還困難地域があり、震災後このまちを離れて他郷に定住する人もいる。まちが以前の賑わいや活気を取り戻すには、まだまだ時間はかかる。それでも、まちの至るところには新しい施設ができたり、まちの有志が集まり新たな地場産業に挑戦したりと、復興に向けた取り組みが積極的に行われている。

復興という新たなヒカリ

 視察ツアー最終日のこと。災害時は救援の拠点として、いまは復興のシンボルとなっている宿泊先のJヴィレッジから三陸沖の黎明が目に入った。雲がかかった海面の向こうから太陽が昇ってくる。まだ復興のゴールは先でも、すべてを元の状態に戻すことができずとも、すべての人を幸せにすることは難しくても復興は進む。少しでも多くの被災者の方々が、少しでも多くのまちの方々が、復興という新たなヒカリに照らされることを切に望むばかりである。

 県外の人々にも震災の記憶と復興のいまを理解してほしい。そのためにも、より多くの人が現地に足を運んでもらえるように、多面的な施策を講じる必要があるのではないか。そう強く願う「通り道」であった。

崔載弦(東海大学観光学部准教授)

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