人のために働く

2022.08.15 08:00

 旧知の都内ホテル社長から誰か即戦力はいないかと相談があった。聞けば若いスタッフが一斉に退職するという。マネージャーと意見が合わないからだそうだ。人間関係がぎくしゃくしてしまうのは組織ではよくあることだが、一斉に総上がりするのはいかがなものか。マネージャーも責任を取って退職願いを申し出たというから闇は深い。経営者としては泣きたいところだ。

 現代の人間関係は自己愛に満ちた者同士の承認欲求がマグマのようにたまり、いつ暴発してもおかしくない状況ではないか。ホスピタリティー産業はゲストにホスピタリティーを発揮するのが本業だが、それ以前にスタッフに対するインターナルホスピタリティーが必要不可欠になりつつある。

 こうした変化は大学で若者と接していてもわかる。とりわけスマホをベビーシッター代わりに育った新ミレニアルズ(00年以後に生まれた若者)は手ごわく、リアルコミュニケーションが得意でない子の割合が高くなっている。彼ら彼女たちも間もなく社会に出る。スマホでしかコミュニケーションを取れない若者が、リアルな人間とうまくコミュニケーションが取れるか、心配でならない。

 もちろん学習能力は高く、すばらしい個性の持ち主ばかりだ。話していても楽しい。しかしコミュニケーションが不得手なのだ。自分が引くということが特にできない。文部科学省は08年、学習指導要領を改定し、「生きる力」の育成を重視するようになった。子供のメンタルの健康度がユニセフの調査で主要38カ国中37位のわが国で、子供のリアルコミュニケーション能力の育成は喫緊の課題だ。

 そして、かのホテルの緊急事態を救ったのは1人のホームレスと仲間たちだった。といっても自宅はあるのにあえてホームレスの中に飛び込み、発信するツイッターを常に炎上させながら、将来のホテル経営を夢見る24歳だ。彼は学生時代に仲間たちと旅館運営も経験した。文科省の奨学金でベトナム、インド、タイのホステルへ働きに留学もした。帰国しても新卒一括採用の就活には心引かれず、現金を持たず1年間国内放浪の旅に出た。

 キャッシュレスアプリのキャンペーンで得た500円でマッチを買い、路上で1個100円のマッチを売ることから彼の生活は始まった。その日々をnote(ノート)で発信し、本にしてアマゾンで売った。定職がなくてもネット社会では日々稼いでいけることを自分自身で証明していた。

 若気の至り。後から思えば、きっとそう思うであろうと言う彼の座右の銘は「人のために働く」。お金のためでも自分の成長のためでもない。放浪を続けて思ったことは、常に人に支えられた1年だったこと。与えられたことから始まり、そのお返しに人は働くことに気づき就職することにした。

 ホスピタリティー産業で働く上でまず必要なのは、親や社会や出会った人たちに贈与を受け続けて生きてきたことにまず気づくことなのだろう。

井門隆夫●國學院大學観光まちづくり学部教授。旅行会社と観光シンクタンクを経て、旅館業のイノベーションを支援する井門観光研究所を設立。関西国際大学、高崎経済大学地域政策学部を経て22年4月から現職。将来、旅館業を承継・起業したい人材の育成も行っている。

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