脳をリセットする海外旅行

2023.04.24 08:00

 初めての海外旅行の時の感情を覚えているだろうか。コロナ明けの久しぶりの海外旅行で、忘れていた初心者の記憶を再現できた方も多いと思う。初めて外国へ飛び立つ時の期待と不安、解放感と緊張感が入り交じる感情を私自身よく覚えている。

 2月に初海外を経験する学生を観察できる機会を得た。シンガポールでの海外研修に参加した学生14人中8人が初海外。昔の自分を見ているようで面白くもあったが、当の本人たちは必死である。入国審査では何を聞かれ何と答えればよいのか、移動手段は何があるのか、切符はいくらでどうやって買うのか、メニューには何があってどうやって注文するのか、精算はどのようにして支払うのか等々。

 日本では簡単な意思決定も外国ではそうはいかない。文化的背景やルールが異なる外国では、真っ白な状態で旅行者の情報収集の感度が全開になり、その都度考え、相当な脳のエネルギーを消費する。どうやら海外旅行は脳をリセットして童心に返る現象であるらしい。

 というのも、それは生まれたての赤ちゃんの行動に似ているからだ。親が日本語を話す赤ちゃんは、生まれてすぐはLとRの発音の違いがわかるのに、8カ月ぐらいで区別できなくなると認知科学の実験で明らかになっている。真っ白な状態の赤ちゃんは瞬きもせずすべての情報を受け取ろうとする。その際、脳が相当なエネルギーを消費するのでよく眠る。しかし、成長するにつれて脳が入ってくる情報を取捨選択するようになる。それが「慣れる」ということだ。初めての国に行くと見たものすべてシャッターをよく切るが、徐々に撮影枚数が減っていくのは、脳が情報を取捨選択する慣れの表れだ。

 大人になると考えることを省いて行動できるようになるのは、習慣や常識を身に付けるから。ところが外国ではそれが通用しないので、脳がリセットされ、固定観念を持たずに情報を受け取ることになる。それが挑戦心を芽生えさせ、創造力を促す可能性がある。

 観光経験が人間の何を変えるのかは観光研究では重要なテーマの1つだ。先行研究では、観光経験によって観光者の知識やスキル、記憶、自己アイデンティーを変容させるとされている。私は海外旅行経験で特徴的な変容として、特に自己効力感に注目している。自己効力感とは自分がある状況において必要な行動をうまく遂行できると自分の可能性を認知していることだ。「いままで知らないことはやらないようにしていたが、やってみようと思うようになった」と言う初海外の学生がいたのは、その象徴だろう。

 「裸の王様」という童話がある。ばかには見えない透明の服を着た王様を忖度して褒めたたえる大人たちを尻目に、「何も着ていない」と叫んだのは小さな子供だった。この逸話は他人事には思えない。マスクを外すことさえ他力本願で、目に見えない習慣、常識、前例などの観念に縛られて自信を失った日本社会と重ねてしまう。時には外国を旅して、当たり前をリセットする思考を持ちたいものだ。透明のマスクをしなければならない社会になることだけは御免被りたい。

鮫島卓●駒沢女子大学観光文化学類教授。立教大学大学院博士前期課程修了(観光学)。HIS、ハウステンボスなど実務経験を経て、駒沢女子大学観光文化学類准教授、同大教授。帝京大学経済学部兼任講師。ANA旅と学びの協議会アドバイザー。専門は観光開発論。DMO・企業との産学連携の地域振興にも取り組む。

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