ベスト・モーメント
2021.08.16 08:00
東京五輪の開会式を見ている。興奮気味に参加国の入場をレポートするアナウンサーの声だけがむなしく響く。格子模様に色違いにデザインされた国立競技場の座席は、皮肉なことに遠目に見ると人が大勢座っているように見えるが当然観客はいない。旗を振りながら入場する選手団の笑顔が唯一の救いだ。国名あいうえお順での入場という、日本でなければあり得ない最高の機会。世界にまだ知らない国がたくさんあること、知らない間に名を変えた国があることに気づく。果たして子供たちはテレビと地球儀とを見比べながらまだ見ぬ海外の風景に思いを馳せたりしているのだろうか。そう教えようと気づいた大人たちはどのくらいいるのだろうか。
さまざまな思いが交錯し、複雑になってしまった2度目の東京五輪が、のちに振り返った時に日本の完全なる衰退の分水嶺となったと評価されることのないよう祈るばかりだ。予想した通り、始まった途端にコロナ禍を煽るだけ煽った当事者たちが息を潜め、あるいは見事にスイッチを切り替えて感動を届ける側に回り始めた。無観客の競技場の外に目を向ければ、4連休を楽しむ人々で街はあふれ、時短営業と酒類提供なしの飲食店の貼り紙にため息をつくことと、警察と警備員の数がやたらと多いことを除けば一見これまでのトーキョーの夏休みと同じだ。
福島県を走るトロッコ列車や車内でスイーツを出す「フルーティアふくしま」は家族連れなどで満席だった。線路に並走する道路には「感染拡大地域への外出は自粛を」と電光サインが光る。その福島では五輪の野球とソフトは無観客。隣の宮城ではアイドルのコンサートやプロ野球のオールスター戦が有観客で行われ、五輪のサッカーの試合も有観客。
この説明のつかない理不尽な状態を作り出したわれわれの罪は重い。約1年半、すでに多くの時間を無駄に浪費し、取り戻せないほど多くのものを失った。人の行き来、あるいは海外から来た人をむやみに怖がる。いったいどの時代まで時計の針を戻せばいいのだろう。しかもそのことに気づかぬふりをしているのか、人の動きを必要以上に止めた時間が長かったことで、かつての経済的ダメージとは比べものにならないくらい回復が難しくなった現実から皆が逃げている。
コロナ対応の検温や消毒、それに加えて人数制限から一転の無観客。周到な準備をしながら翻弄され続けた五輪のオペレーションは、直前でよくここまで対応できるものだと驚く。デジタルでのオペレーションはまるでイケてない日本だが、こうしたリアルなロジスティックスの底力はさすがだ。しかしその底力も本来は大勢の人流を混乱がないようさばくことで発揮するノウハウだ。振り上げた拳を下ろす場所のない、なんともやるせない日本の夏が続く。
寿司屋の職人がいちばん大切にしている最高の瞬間(ベスト・モーメント)は握った寿司を目の前でお客さまが口に入れた時の表情だという。世の中の接客業のすべてがそうだろう。オンラインでもできることはたくさんある。しかし最後まで残るのは人と接することに喜びを得て、そこに高い報酬が伴う仕事。すでに米国のサービス業の雇用は上向きだというが、彼らにはスマイルを有償にするチップという習慣がある。人と接するのが嫌な人ばかり、そんな日本になるのはごめんだが、その足音が忍び寄っている。危機感を持つべきだ。
最高の舞台での最高の瞬間を目指して努力してきたアスリートたちの笑顔は格別だ。だがそれだけではすべてを救えない。最も求めているはずの拍手と歓声。それがないままに無言でプレーする彼らに最大限の称賛を。
高橋敦司●ジェイアール東日本企画 常務取締役チーフ・デジタル・オフィサー。1989年、東日本旅客鉄道(JR東日本)入社。本社営業部旅行業課長、千葉支社営業部長等を歴任後、2009年びゅうトラベルサービス社長。13年JR東日本営業部次長、15年同担当部長を経て、17年6月から現職。
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