ツーリズムの現在地と未来 時代の転換期に探る産業のこれから

2024.06.17 00:00

羽田での記念撮影に納まるジャルパック第1陣の参加者たち(1965年4月) 写真提供/ジャルパック

 1964年4月1日、海外観光渡航が自由化された。当時、羽田空港で記念撮影に納まる海外旅行参加者の姿は背広姿にネクタイ、女性は着物姿が目立ち、のぼりを立てて見送る人々の姿も見られた。海外旅行は特別なものだった。その後のパッケージツアーの登場で海外旅行は一気に身近なものとなり、発展・拡大の道を歩んだ。ところがコロナ禍を経て訪日旅行市場の順調な回復を尻目にその糸口をつかめていない。海外旅行は再び遠い存在になってしまった。
 時代の転換期を迎えたいま、あらためてこの60年の足跡を振り返りながらツーリズムの現在地を確かめ、産業のこれからを展望していく。

渡航自由化60年の足跡<1960年代>観光基本法と第2の開国

 1964年の東京五輪は日本の戦後復興を世界に印象付ける一大イベントとなった。同時に大会開催が原動力となり観光基本法制定、観光渡航自由化、東海道新幹線開業など、その後の観光発展につながる基礎作りが進んだ。わが国の観光にとって60年代は文字通り、あけぼのの時代だった。

 日本の歴史上初めて「観光」の概念を明確に、かつ法律的に定義した観光基本法。観光・旅行業界の憲法ともされる同法が生まれたのは、戦後復興のシンボルとなった東京五輪開幕を1年後に控えた63年のことだ。国民にとって観光が何たるかを示すとともに、いまに至る観光産業発展の礎となった観光基本法だが、その誕生までには紆余曲折があった。そして実現の裏側には生みの親ともいえる人物の奮闘があった。

 63年6月20日の観光基本法公布・施行の約2年前。運輸省(現国土交通省)の観光局長に就任した梶本保邦がその人だ。五輪開催という国家的プロジェクトの受け入れ準備を担いうる人材として任命された。しかし梶本は受け入れ準備を完遂したのにとどまらず、観光基本法の制定まで実現してしまう。

 当時の観光や観光業に対する評価は極めて低かった。しょせん物見遊山に過ぎないと見下され「観光ごときに基本法とは何を馬鹿なことを」というのが一般的な認識でもあった。実際のところ、オリンピックという千載一遇の好機に大儲けしようという有象無象の輩が観光の名の下に群がり、見下されても仕方ないような状況も一部にあった。

 梶本は著作「続・観光よもやま話」の中で、基本法制定に邁進するに至った心境について触れている。「これではいけない。何とかしてゆがめられた観光の概念を是正し、正しい観光の理念を打ち立てられないものだろうか。それには、観光の憲法として、観光基本法を作る以外に道はないと私は思うようになった」

 とはいえ、観光の重要性への理解が乏しい時代背景もあり法律案の策定は難航を極める。しかし、事なかれ主義に染まらない梶本は、オリンピックを目前に控えたこの時期に作らなくては、観光基本法の実現はますますおぼつかなくなるという使命感に突き動かされ奔走する。

 そして観光基本法は自民党、社会党、民社党の3党共同で提案され、自民党のものでも社会党のものでも民社党のものでもなく「観光はすべからく国民のための観光でなければならない」という梶本の思いを乗せた法案として国会を通過した。

 その後、日本の観光産業は東京五輪の成功や経済成長を追い風に本格的な発展を開始。日本人海外旅行市場の拡大や多くの旅行会社の誕生、大手旅行会社の進化へとつながっていく。その成長の原点には型破りな官僚だった梶本が心血を注いで実現した観光基本法の存在がある。

【続きは週刊トラベルジャーナル24年6月17日号で】

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