出会いと気づき
2024.04.29 08:00
私が長年付き合ってきたゴリラやサルと比べると、人間は3つの自由を駆使して社会を拡大してきた。動く自由、集まる自由、語る自由である。
サルたちは年間せいぜい数十平方キロメートルの範囲しか動いていない。集団生活をするサルは四六時中同じ集団の仲間と付き合い、他集団のサルとは敵対関係にある。いったん集団を離れると、元の集団にはなかなか戻れないし、他の集団に加入するのも容易ではない。しかも、言葉がないので仲間とはいま見ていることを共有するしかない。
一方、人間は交通機関を使って地球上の至る所まで足を延ばせるようになった。飛行機を使えば1日で地球の裏側へ行くこともできる。出かけた先々で、その土地の人々の集まりに参加して交流できる。さらに、言葉を使って自分の見聞きしたことを人々と語り合うことができる。人間に旅が可能なのは、この自由のおかげである。
なぜ、こんなにも3つの自由を広げることができたのか。それは、人間がどこへ行っても集団のために尽くすという倫理を持ったせいであると私は思う。そして人類が共同保育をするようになって、子供たちの生存と成長のために自己犠牲を厭わず協力する精神を発達させたからだろう。だからこそ、どの集団でも異邦人を受け入れるし、初顔の訪問者は自分が集団のマナーを守り、集団のために尽くす用意があることを表明する。まさに「郷に入れば郷に従う」という精神があるからこそ、いくつもの集団を渡り歩いて行けるのだ。
旅は多くの新しい出会いと気づきから成り立っている。旅先では、生まれ育って長年親しんだ風景とは違う景色が広がっている。それは自然であっても純粋な自然ではない。人間は文化のフィルターを通して自然を眺めるからである。カラマツ林に詩情をかきたてられるのも、青く澄んだ湖水に目を奪われるのも、春霞に浮かぶ新緑の山々に心を湧き立たせるのも、文化によって意味づけられた風景だからだ。しかし、異郷の地を訪れると、その土地の人々のまなざしを追うことで、そこに自らの文化とは違ったものに気づく。それが旅の効用である。
「観光」の語源は、中国の四書五経の1つ「易経」にある「観国之光」とされている。まさに「国の光を観る」ことにあり、訪れた土地の文化や政治や人々の暮らしを観察し、それを伝えるといった意味がある。恐らく日本でも人々は農閑期になると、連れ立って遠くにある神社仏閣に詣でたのだろう。そこで見たり聞いたり体験したりしたことを故郷の人々に伝え、自らが暮らす土地の文化や風俗を見直す知恵を得たに違いない。
このように旅は新しいことやものに出会う機会を与えてくれる。しかし、昨今の情報時代はあらかじめ行く先の事情を調べて旅をすることが一般的になった。すでに分かっているものに出会い、期待していることが起こる。旅の持つ本来の魅力である、新しい出会いと気づきをどうしたら得られるか。時には情報に頼らず、偶然の成り行きに身を任せてみる旅も必要なのかもしれない。
山極壽一●総合地球環境学研究所所長。1952年東京生まれ。理学博士。人類進化論専攻。京都大学大学院理学研究科助教授、教授を経て、京都大学総長を2020年まで務めた。21年から現職。国際霊長類学会会長、日本学術会議会長などを歴任する。
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