五感を取り戻す観光

2023.08.21 08:00

 現代社会は無臭化社会である。人々が体臭や生活臭に敏感になったせいか、消臭グッズが大人気。暑い夏ともなれば、多汗な人はスメルハラスメントの疑いをかけられぬよう苦心する。日常生活が無臭化する一方でスメルスケープがにわかに注目を集めている。スメルスケープとは匂い(smell)と風景(landscape)を合わせた造語で、失われつつある視覚以外の豊かな体験の復権を目指すものとして地理学者ポーティウスが提唱した概念だ。

 英国ヨークにあるバイキング博物館では、魚、皮、大地といった土地の独特な匂いを再現する展示を行っている。日本でも01年、環境省が良好な香りとその香源となる自然や文化の保全を目的として「かおり100選」を選定した。富良野のラベンダー、草津温泉の湯畑、神田書店街の古本、伏見の酒蔵、柳川の鰻と聞けば、なぜか訪れた時の匂いの記憶がよみがえる。匂いは土地の個性を表すものだ。逆に匂いを消すことは地域の個性が失われることなのかもしれない。

 嗅覚はその中枢が脳の中心に近い原始的な部位にあり、感知する情報伝達が遠隔なため、曖昧になりやすいという。しかし匂いの記憶は長く保持されるとの研究もある。また、匂いは感情を高揚させ、情緒的反応に強く結びつくともいわれる。

 同様に音も土地の個性を表す。音(sound)と風景(landscape)を合わせたサウンドスケープという言葉もある。こちらも環境省が「残したい日本の音風景100選」を選定。鶴居のタンチョウ、奥入瀬の清流、横浜の船の汽笛、古都奈良の鐘の音、阿波踊りの囃子などいまでも私の記憶にしっかり刻み込まれる。街中で響くコーランを聞けばイスラムの国に来たことを、バイクの喧騒を聞けばベトナムにいることを実感する。空港のアナウンスで旅の高揚感が再現される人も多いだろう。

 グランドキャニオンの旅から帰国した視覚障害のある知人が、サウスリム展望台に立った時に感動して涙が出たという。峡谷から吹き上げる風が肌に触れる感覚がいままで経験したことがない壮大なものだったと。人間は絶景だけで感動するわけではないことを初めて知った。

 コロナ禍で分かったことの1つは、私たちは五感を使って三次元世界で生きているということだ。オンライン会議、バーチャルツアーにどこか物足りなさを感じるのは、それが二次元で五感の一部で知覚する行為であるからだろう。従って観光とは五感をフルに使って三次元空間で身体の移動を伴う行為であると再定義できる。だとすれば日常生活で無臭化・無音化を是とする社会において、非日常に身を置く観光は人間が本来持つ五感のセンサーを取り戻す機会であるといえる。

 真の絶景とは見た目だけではなく、香り、音、肌触り、味覚も含めた「五感の超絶景観」として捉え直した方がよい。そうなると観光資源発掘の方法が変わる。魅了する香源、音源、触源、味源は何かという視点で地域の宝探しをしてはどうだろう。五感を存分に意識化する旅行企画・観光コンテンツができれば、より印象的な深みのある感動体験を提供できるのではないだろうか。

鮫島卓●駒沢女子大学観光文化学類教授。立教大学大学院博士前期課程修了(観光学)。HIS、ハウステンボスなど実務経験を経て、駒沢女子大学観光文化学類准教授、同大教授。帝京大学経済学部兼任講師。ANA旅と学びの協議会アドバイザー。専門は観光開発論。DMO・企業との産学連携の地域振興にも取り組む。

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