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海外との取引業務に限られていたのが、「業務」であれば視察でも何でもいいということになり、この年は10万人を超える人々が旅立った。 当時の日本は64年の東京オリンピックを控え、国内のインフラ整備と同時に、経済的にも国際社会の一員となることを目指していた。そのためにOECD(経済協力開発機構)加盟は必須だったが、OECD 加盟はすなわち、外貨の自由使用を認めることを意味する。つまり、観光旅行にも外貨を使用していい=海外観光旅行が実現できるのだ。 情勢を見越していた旅行業界の動きは速く、日本交通公社が60年から銀行とタイアップして海外旅行積立会員を募集するなどマネープランに着手。「トリスを飲んでハワイに行こう」のCM も、61年のオンエアだ。64年3月時点で総預金残高はおよそ140億円といわれ、過熱ぶりを警戒した大蔵省(現財務省)は自由化直前の3月30日に旅行あっ旋業者50社を招集し「誇大宣伝をやめ、海外観光旅行自粛に協力するように」と呼びかけた。 64年3月12日、日本のIMF(国際通貨基金)8条国移行が承認される。続く4月1日に日本はついにOECDに加盟し、同時に海外渡航自由化が実現した。「第二の開国」といわれたこの日の毎日新聞夕刊、社会面トップの記事が当時の熱気を伝えている。 「物見遊山の海外旅行が自由になった。初日の一日、外務省旅券課へ押しかけた旅券申請人数は一挙に倍増。この日を手ぐすねひいて待っていた旅行会社は……」 自由化されたとはいえ貴重な外貨を守るため、1人年1回、持ち出し外貨500ドル(約18万円)、日本円では2万円が上限という制限付き。それでもこの年は12万7749人が海外へ旅立った。同年10月には東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催される。このとき、ヨーロッパの選手団を輸送してきた戻りの空席フライトを利用し格安旅行を提供しようという動きがあった。運輸省(現国土交通省)からは禁止の通達も出たが、欧州系航空・旅行会社側は大反発。チャーター便の発想や安売りツアーの議論は、64年にすでに芽生えていた。 自由化当初は団体の手配旅行が主体だった海外旅行だが、不特定多数に募集をかけるパッケージツアーの登場は、市場を一気に活性化させた。 まず主導したのは航空会社で、自社ブランドツアーを用意し、販売はIATA 旅客代理店が行う分業体制。一番手は64年7月に登場したスイス航空百花繚乱のパッケージツアー海外渡航自由化とわが業界松尾静磨(日本航空社長)●トラベルジャーナルの誌面からすから、あなたのほうも、もっときてほしいという心意気を示してこそ観光の拡大再生産があるのである。 この意味で、自由化以前の日本航空の立場は、まことに心苦しいものであった。ニューヨークで、ロンドンで、パリで旅客をとるにも、肝心の日本が“鎖国”とあっては、大手をふって世界航空界に顔出しができなかった。 自由化いらい、日本航空の海外支店は非常に張り切り、39年度の営業成績は予期以上のものを収めたのである」(1965年6月14日号) 「日本は観光を国策としている。このためにも昨年自由化にふみきったのは当然であった。従来、観光に関する国際会議で、いつもツー・ウェー・トラベルということが問題になった。 貿易でもそうであるが、受け取り勘定だけをふやそうという片貿易は永く続くものではない。観光も入れるものだけ入れて、出すものは出さんというのは、あまりに虫のよい話である。当然、相手国も観光を制限するだろうし、行きつくところは観光の縮小再生産となってしまう。 これは、いかにもまずい。こちらも出左/ジャルパック創世記のパンフレット表紙 下/第1号となったジャルパックの広告(1965年)写真提供/ジャルパックTRAVEL JOURNAL 2014.6.16 25|特|集|次の半世紀へ