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概要

40_1964-2003

海外旅行40年の航跡/●/●海外観光渡航が自由化されてから40年。1964年に12万7000人余りだつた渡航者数は、2004年には1330万人へと推移した。右肩上がりの旅行需要は、戦争やテロなどの政情不安、感染症の不安などで腰を折られることもあつたが、海外旅行は―般大衆化し成熟期を迎えている。―方、アウトパウンドを中心にビジネススタイルを確立してきた旅行業界では、インバウンド事業にも目が向けられ始めた。各年代ごとに、そうしたツ…リズム産業の変遅をたどつた。__=_^昌の花"か年代ДI■■ 「キャリア・オリエンテッドの時代“第二の開国"観光渡航の自由化1964年(昭和39年)は、20世紀の日本にとってエポックメイキングな年となった。10月1日には東海道新幹線が開通し、東京/大阪が4時間で結ばれた。運賃は1300円、グリーン車が2860円。その10日後、10月10日にはアジアで初めてのオリンピックが東京で開催された。93カ国。地域、5133人が参加し、日本選手団は金メダル16個を獲得するなど活躍した。東京オリンピック開催は、運営能力や組織力も含む日本人パワーを国際社会にアピールする好機になった。東京オリンピックの7カ月ほど前の3月12日には、日本の国際通貨基金(!MF)8条国移行が同理事会で承認され、4月1日には経済協力開発機構(OECD)加盟が実現した。新幹線が技術開発、東京オリンピック開催がヒューマンリソース、OECD加盟が経済力を国際社会に問う形となり、戦後経済復興の完了と日本人の自信を国際社会に明示する一年だった。4月1日の海外渡航自由化は、そうした社会情勢のもとで実現した。OECDへの加盟は、まだまだ貴重だった外貨を「レジャー目的の海外旅行で使ってヨロシイ」という政府のお墨付きである。それは、日本人の誰もが一人ひとりの意思で海外へ行ける「日本人の開国」でもあり、「旅行の自由」が認められたことに意義があった。1868年の開国が国家。日本の国際社会への門出であるならば、1964年の海外観光渡航自由化は日本庶民の国際交流の出発点になった。``第二の開国"ともいわれる所以である。セレブたちのステイタスシンポル同日付けの「毎日新聞」(夕刊)は、「物見遊山の海外旅行が自由になった。この日を手ぐすねひいて待っていた旅行会社は……」と旅券申請ラッシュを報じている。海外観光団体旅行の第一陣は4月6日に出発した。いずれも羽田発で、「ハワイ・米西10日間」(参加者23人、38万6000円、日本交通公社/日本航空)と「ヨーロピアン・ジェット・トラベル17日間」(参加者16人、71万5000円、日本交通公社/アリタリア航空)の2ツアーだった。当時の大卒初任給は2万円弱、今年度(04年)の10分の1である。海外観光旅行は庶民にとってはまだまだ高嶺の花、まさにセレブのステイタスシンボルだった。洋酒・外国タバコ・香水の3点セットがお土産の必携品になった。1人年1回、500米ドル(18万円)の持ち出し外貨と日本円は2万円を上限とする条件付きの自由化だったが、この年には12万7749人(法務省資料)が堰を切るように海外へ飛び立った。自由化直後から業界離れの危機感海外渡航の自由化は、大蔵省などにとっては痛し痒しの国家的選択だった。貴重な外貨を無駄使いするとは…、と大蔵省は自由化直前の3月30日には旅行あっ旋業者(当時の呼称)50社を招集して、「誇大宣伝を止め、海外観光旅行自粛に協力するように」とチグハグな対応を迫った。一方、旅行あっ旋業者サイドにも自由化に対する危機感がなかったわけではない。「自由化されれば旅行者は自分で渡航手続きして直接、航空会社やホテルを予約する。その結果、(旅行あっ旋)業者を介せず海外旅行してしまうことになるのではないか…」という主旨の観測が、創刊直後の『トラベルジャーナル』で論じられている。業者としての存在意義は自由化直後から宿命のように論じられてきたのである。自由化以前は外貨調達の手腕や旅券、ビザ取得など渡航手続きの確実さや迅速性が旅行業界に問われた。渡航制限のもとでいかに海外への橋頭堡を築くかが、海外旅行業界の大きな存在価値8 観光立国への道