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概要

40_1964-2003

‐10` , 1大量輸送の70年代から高速輸送の80年代へ。SST(コンコルド)が登場してパッケージツアーにも組み込まれる。写真は日本旅行のお正月ツアーの一行(85年)観光局オリエンテッドの日剖t運賃の二重構造で業界不信も1980年代前半は、第二次オイルショック(79年)の余波を受けて景気が低迷した。インフレ傾向が色濃くなり、土地価格が高騰してマンション建設ブームが加熱した。しかし、諸物価が高騰するなかで海外旅行は値下げの坂道を突っ走っていた。オイルショックによる燃料価格の急騰。それによる航空運賃の値上げ。80年上期のハワイ最低販売価格(MTP)は、20万円の大台を突破するほどだった。中東地域の情勢不安とツアー料金の大幅値上げがブレーキになって、1980年には海外旅行自由化後、初めてマイナス成長を記録する。不振打開策として、MTP割れの“ユニット商品"が続出したのも80年代初頭の出来事だった。「背に腹は代えられぬ」と素材型運賃がそのままマーケットに現れて、ダンピング合戦の様相を呈した。特に太平洋線の値引きが顕著になり、航空運賃の値上げとは裏腹に13万円台のハワイ向けパッケージツアーも現れた。これに対して、航空会社は路線別に秩序確立委員会(コンプライアンス・コミッティー)を組織してマーケットプライスの現状維持と安定化を図った。しかしながら、同委員会は自警団的な色彩が濃く、さしたる効果がみられなかった。消費者には航空運賃の二重構造を印象づけて、航空・旅行業界の不透明感、不信感を植えつける結果になった。都心のビルの1室に格安航空券の専門店が誕生し、消費者から支持されるようになるのも80年代前半の特筆事項である。規制緩和で塗り替えられた勢力図日本を取り巻く航空会社の足(航空運賃)の乱れは、オイルショックだけが引き金だったわけではない。1978年、カーター政権のもとで着手された米航空業界の規制緩和(デレギュレーション)の影響が、ドミノ現象になって日本上空にも押し寄せていたのである。規制緩和によって米国内航空運賃は自由化され、航空会社間の競争を激化させた。80~ 85年にはプラニフ・インターナショナル、ウエスタン、ヒューズ。エアウエスト、ナショナルなど米国の航空業界を支えてきた有力航空会社が吸収合併された。規制緩和で170社ほどあった米航空会社は85年までには100社が消滅し、寡占化が起きた。生き残った航空会社は拠点主義ともいえる「ハブ&スポーク」の路線政策を推進して、イールドの向上。運航コストの低減を必須事項とする。必然的に航空代理店へのコミッション率引下げが断行される。米国の旅行業者は苦肉の策として顧客から直接収受するハンドリングチャージを設定した。こうした米国内線の競争が太平洋線にも波及し、85年にはパンアメリカン航空が太平洋線をユナイテッド航空に売却した。戦後、日本の航空・旅行産業に大きな影響を与えた空の盟主バンナムの撤退である。そして、ユナイテッド、アメリカン、デルタなどの航空会社が太平洋線に新規参入してくる。全日空が国際線に進出1985年1月には米民間航空局(CAB)が廃止され米国内では、路線参入の自由化、運賃の自由化、運航資格制限の撤廃が実現する。米CAB廃局と規制緩和は、欧州やアジア各国、そして日本の航空政策にも大きな影響を与えることになる。日本では「国際線は日本航空、国内幹線は日本航空と全日空、国内ローカル線は全日空と東亜国内航空」という“空の航空憲法''(45。47体制)による航空政策が採られていたが、航空輸送量の増大や国際競争の激化などによって見直しが行われ、86年には新航空政策が策定された。その結果、全国空の国際線進出、日本航空の国内幹線参入が実現し、後に東亜国内航空(日本エアシステム)の国際線進出が行われるなど複数競合の航空政策が採られることになった。航空政策の改定と同時進行するように、国内の空港整備が行われた。79年のlTC(インクルーシブ・ツアー・チャーター)の解禁も、ローカル空港の拡充をにらんでの地域活性化策だった。鹿児島、12 観光立国への道〆ヽハ▼ア`ヽ/. ニ10→ヽ■‘11日■・、イ、0`イ1ヽ¬`, C●`フア