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概要

35_1964-1999

ヽ`ュ「シンクオーストラリアセッション」では毎回熱心な議論がなされた(1991年・淡路島)れる声明文であった。そうなると旅行会社の責任意識は一気に高まり,その結果としてオーストラリア市場は爆発的な伸長の時代を迎えたのだった。航空会社はパートナーとして対等と考えるのが一般化する方向とセミナー(洗脳教育)」と呼んでいた。新入社員の真っ白なビジネス脳にオーストラリア色をベッタリと毎年塗り付け続けたのである。このほかにも,業界個人のデータベースを整備してニュースレター(後にセールスレターとなる)を定期的に刊行したり,オーストラリアの商品知識を広めツアーのバラエティーを増やそうとJAMと呼ばれるミッションを組織したり,インセンティブ・プログラムを疑似体験するインセンティブコロボリー(セミナー)を実施するなど,明確な目的とアチーブメント・レベルを設定した11での旅行業界向けプロジェクトが多数企画・実施された。ATCの企画する業界向けイベントはいつも参加者の招集に苦労することがないほど,好評だった。消費者の立場から旅を考え,旅入の心に響くキャンペーンを展開就任当時からルパージ局長は,従来から日本で実施されている消費者向けデスティネーション・プロモーションの方策に疑問を持っていた。どこの国も,「私たちの国にはこんな美しい景色がありますよ」だけなのである。「私にとって旅行は休暇だ。景色を見るためだけに海外旅行には行かないぞ。」という己のモチベーションを考え,「旅行に求めるものは異った空間での新しい体験だ」と結論づけた。広告代理店のスタッフを集めて,熱心に考えを説明し,その広告表現を求めた。初めは「観念論に過ぎないだろう」と高を括ったクリエイティブマン諸氏も,次第にその熱心な説得に引き込まれ,双方の間のギャップが埋め込まれる作業が繰り返されて、遂に「オーストラリアン・クライマックス」キャンペーン(1981~ 1983)を創出するに至ったのである。サプライヤー側からの売りたいモノの表現ではなく,旅人の立場に立って,オーストラリアでは「こんな旅が体験できるぞ」「旅心の最高の高まり・クライマックスに感動する休暇を」と訴えかけたものだった。これまでのデスティネーション・プロモーションとは全く一線を画したものだった。旅行地を宣伝するのではなく,休暇に向かう人の心に旅の感動を訴えるものだったからだ。マーケットの立場で考える業界で初めてのデスティネーション・キャンペーンだった。その後「フレンドリー。オーストラリア」(1983~ 1984),「アイム・オージー」(1985~ 1988),「オージー・スタイル」(1989~ 1991)とキャンペーンが続けられヽヽ__′ ´■―ションには見られない旅行業界との結束を深めていったのであるじ、旅行業界に多くのマーケティング通がこのセソションを通して輩出された_航空会社と旅行会社はパートナー,対等に市場を語る。なり,次回のセッションからは望んで出席する航空会社も現れた。販売前線でオーストラリアヘの好意を形成するこうして戦略面での観光局,旅行会社,航空会社の足並みがようやく揃い始めた。次は宣伝と販売である。1980年代中頃といえば,既にほとんどの観光局がそのオフィスを日本に開いていた。競争を意識せずには勝利はない状況になっていた。戦略構築面でのアドバンテージに追随するように,流通(販売現場)においてもアドバンテージの確立が議論された。「ハワイ,アジアを売るよりは,オーストラリアを販売させる」である。ATCが取った戦術は,「販売前線にオーストラリアをもっと身近に感じ,マーケティングチームの一員であるとの意識を持ってもらおう」というものだった。代表的なプロジェクトは,名付けて「オーストラリア・ファミリーデイ」。F供となかなか親らしく遊んであげられない販売前線の旅行会社スタッフを招き,そこここにインダイレクトにオーストラリアを感じる休日を過ごしてもらおうという企画で,当初(1987年)は東京を中心に120人程度の規模で南房総のマザー牧場に日帰りで実施されたが,「次回はいつやってくれるんだ?」「今回は私は呼んでくれないのか?」と言った問い合わせが入るほどの好評で受け入れられ,その後,毎年の行事となって,1991年には東京を中心に山梨県原村に1泊2日150人,大阪を中心に香川県小豆島へ100人規模を集めて実施されるまでに発展した。結果的にはATC,州観光局,旅行会社,航空会社の間に強い連帯感が築かれ,太いパイプが張り巡らされたイベントだった。「フレッシュマン・セミナー」もオーストラリアを身近に感じさせる画期的な教育プログラムだった。入社したてで旅行市場のことがまだ何も分からないピカピカの旅行会社スタッフを集めて,日本の旅行市場全体のことを話しながら,「今,一番ホットなデスティネーションはオーストラリアだ」と論理的に吹き込んでいくのである。ATCでは内部的に「ブレーン・ウォッシング・このプログラムのアウトカムとして特に注目されることは,第3回のセッション(1984)において,全参加メンバーー丸で日本航空・カンタス航空に対する共同声明文を出したことだった。代理店と呼ばれ続けた旅行会社がエアラインに「もの申す」などトンデモナイという時代に,であった。声明文に署名したセッション参加者の中には,「航空会社から席が貰えなくなったらどうするんだ!」と,後日上司に始末書を提出させられた者もいたほどだ。当時,日本からオーストラリアヘの直行便の総座席量は約9万席。それに対して日本人旅行者約7万2000人,オーストラリア旅行者3万9000人が日豪間を往来していた。常時,直行便の航空座席は不足し,したがってその航空運賃は下がる力が働かず,他のデスティネーションとは比較にならない孤高のレベルに押し上げられていた。これではツアーメーカー(旅行会社)がいくら市場拡大の努力をしても結果には結びつかないというわけである。この共同声明文はマスコミにも驚きをもって捉えられ,「旅行18社,日航とカンタスに異例の声明文」(日経産業新聞),「史上初の共同声明 豪州人気を支えるには供給座席増強が不可欠」(ウィングトラベル)日豪線増便の“共同声明"を生んだ蓼科セッション,市場開発の方法をめぐり自熱の論議(トラベルジャーナル)等のヘッドラインが大きく紙面を踊り,業界内世論が沸騰した。当初,航空会社からは猛烈な反論を受けたものの翌年には臨時増便が飛ばされ,その後は1986年のパース線,ケアンズ線の開設がなされるなど増便に明け暮れる歴史が開かれることとなった。この18社共同声明文発表は,日本の旅行業界の画期的なメルクマールと言える出来事だった。増便は旅行会社が要求し実現させた。「市場の拡大は請け負う」とも受け取`θ‐′饗メ