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概要

35_1964-1999

DESTl??10?0∨er∨ lewMARKFTING反応する市場と反応しない市場に分かれ,ニッチマーケットの偏在の様相で,マスマーケットには育たないということである。例えばリゾートと括れるような所では,フィリピンのセブ島は91年から,タイのプーケットやマレーシアは90年代の初めから伸びている。また,バリやタヒチは,95年にともにコレラ騒ぎとフランスの核実験批判で一時的に落ち込んだがその後は回復している。グアムはハワイとの比較広告を展開して善戦しており,特に94年と95年は大きく伸長している。オーストラリアやニュージーランドも昨今こそは少し伸び悩んではいるが,90年代前半を通して快調に市場を拡大していった。カリブやフロリダ,あるいはバハマは,日本航空や全日空のアメリカ・イーストコースト路線の副産物的な発生であったが,新しいデスティネーションとして90年代を通して市場に定着した。これらは,それぞれが一定の客層を確保して市民権を得ているが,独り勝ちという状況ではなく,「デスティネーション曼陀羅」の中で,適材適所の一部を担っている。また,リゾートと区分けする程度の意味での,広い解釈でのSIT的な所では,インドは映画ファンから新しい客層が拡がって,96年には前年比28%の伸長をしている。トルコはジャパンフェスティバルもあって94年は34%の伸び,さらに97年には23%の伸びとなっている。エジプトは,92年は142%増,94年は28%増,96年は29%増と|1原調に伸長していたが,97年のルクソール観光客襲撃事件により壊滅的な打撃を受けてしまった。オーストリアは,91年の「モーツァルト没後200年記念」あたりから脚光を浴び始め,その後は手堅い人気を保っている。東欧は,89年暮れのベルリンの壁崩壊後,90年代に入って急速に親しみやすいデスティネーションに変貌してきている。スペインは,94年に大きく増加して,年間日本人客数は30万人規模にまで成長したようである。香港,韓国,イタリアは“気まぐれ"ブーム?ペルーは,90年の日系二世フジモリ大統領の誕生によって拍車がかかり,インカの遺跡などの貴重な観光資源が一般にもよく知られるようになって,現在ここは中南米地区の中では静かなブームの中心である。SITの範囲をもう少し広げて捉えれば,アーバンリゾートのメッカとして人気の高いニューヨーク,航空路線網の拡充とサービス内容の改善効果の著しい中国,地道な広報宣伝活動によって芽吹いてきた東部カナダ,そして,新しいファミリー・スポットとしてのイメージ構築に成功して,直行便運航という強力なサポートを得たラスベガスも,それぞれがセグメントされた根強いファンに支えられていて,やはり“斑模様"の「デスティネーション曼陀羅」の中で,各々が適材適所のポジショニングを担っていると考えられる。次に,“気まぐれ"というのは,昨今の情報化社会の進展から,旅行にも影響を与えることになる様々な関連情報が大量に消費者の耳目に晒されることによって,旅行産業が計画的に仕組んだものとはズレながら,かなり偶発的に予期せざる事態が起きることもあるということである。例えば,返還騒ぎに加熱しすぎて沸騰してパンクしてしまった97年前後の香港である。また,グルメとファッション,そしてショッピングという女性の一般的なトレンディニーズから派生した旅行先として,巧まずしてスターダムに引きずり上げられたイタリアの例もある。あるいはまた,確かに済州島の開発時以来の辛抱強いイメージチェンジ作戦の効果が出てきたことも否めないが,それでもやはり,かつて百貨店のバーゲンセールに女性客が殺到した姿を連想させるような,最近の韓国旅行の異常人気の裏には,IMF介入以降の突発的なウオン安の慈雨の存在を,“気まぐれ"的な要素として考えぎるを得ない。筆者介佐藤喜子光(さとうきしみつ)立教大学観光学部教授1942年生まれ。京都大学教育学部卒業後,近畿日本ツーリスト入社。国際販売部長,団体旅行販売部長,経営企画部専任部長などを歴任。運輸省国際航空運賃問題懇談会委員,日加観光交流促進協議会委員なども務めた。98年4月から現職。西暦748年5月1日付の教皇ザカリヤの手紙に初めて名前が記された伝統の町、アンスバッハは、ベネディクト会修道士グンベルトゥロココ。フェスティバル2000年6月30日′ヽ・7月5日―\■ ′いme and enjoy the Franconian hospitalitylスによって興隆されました。辺境伯(伯爵)家の統治下にあった1331年から1791年まで、町は「フランケン・ルネサンス」の中心として繁栄。アンスバッハの力ロリン王女は英国のジョージ2世に嫁ぎました。1806年までプロイセン領、以後はパイエルン王国の領土となりました。現在アンスバッハ市は人口4万人、多彩な文化的イベントで日本からの皆様をお待ちしております。STADT NSBACHカスノ|°ル・ノlクブ=。フェスティノ(ル2000年8月4日~13日lirformations;City Tourist Office . Stadthaus ' 91 522 AnsbachPhone: +49 (0)98-5 12 43. Fax+49 (0) g 81 -5 13 6557紹゛アンスバンノ12000年郷土のパレード2000年7月9日バンノ1週聞2000年7月28日~30日作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハ没後250周年記念ヽ洒