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概要

35_1964-1999

檄初期には在日のFGTO(政府観光局)はほとんどなく,その役割は日本航空や各国からの乗り入れ航空会社が担っていたが,本来の航空券販売自体も団体旅行に依存じていたわけであるから,その情報伝達対象ももっぱら団体旅行を作り上げてくれる所に絞り込まれていた。このような事情から,初期にはアフィニティ(類縁)性の強い団体旅行,後には不特定多数から募った団体旅行(現在の主催パッケージツアーもこの流れに入る)を企画運営することによって,効率良く旅行目的を達成できるように旅行素材を有機的に組み立てた旅行商品を消費者に提案・提供する「旅行業」が,常にデスティネーション開発,ひいては海外旅行市場創造の触媒機能を担ってきており,全く例外なくその中心にあった。ヨーロッパヘ「花の海外旅行」にデスティネーション開発35年の歴史は,旅行業の果たしてきた「コンサルタント」「ディストリビューター」「ツアープランニング」機能の活躍の歴史そのものである。しかしここでは,中核として機能してきた旅行業の活動内容については当然のこととして,敢えて触れずに,旅行業と深く関わり合ってきた“パートナー''としての「世相・社会的価値観」「在日の政府観光局(FGTO)」「航空会社」の方に焦点を当てて,デスティネーション開発の足跡をたどってみた。この視点から整理すると,初期の15年間は「航空会社」主導型の時代であった。1964年のスイス航空のプッシュボタンを皮切りに,65年以降,日本航空のジャルパックやパン・アメリカン航空のパンナムホリディをはじめ主要航空会社によるパッケージツアーが登場した。海外旅行自由化後3年の間に欧米路線を運航する各航空会社が轡を並べてパッケージツアーを企画し,当時の日本人にはまだまだ憧れの彼方にあった欧米の地を,「夢ではない,手の届くかもしれない,一生に一度の旅行先」(デスティネーション)として意識付けていった。その結果,当時の富裕層のグランドツアーとして,“気軽な"ではなく,まさにエリート意識を満たす“特別な"旅行先として,コーロッパが浮上することとなり,70年代には「花の海外旅行」の代表格として定着していった。そして,アジア各地などと比べて旅行総費用は圧倒的に高額であるにもかかわらず,70年代後半には概してその伸び率は,日本人海外旅行者全体の伸び率を上回るまでに成長することとなった。路線あってのデスティネーション開発の典型の代表選手はエールフランスのタヒチである。73年の直行便就航で一気に前年の4倍に膨れ上がり,順調に伸びて行くかに見えたが,77年の運航ストップで壊滅的に激減してしまった。そして12年後の運航再開までは,「休眠デスティネーション」であった。英国航空も,当時としてはあまり馴染みのなかった東アフリカを,ヴィーヴルと組んでサファリツアーのメッカとして定着させた。バン・アメリカン航空のグアム開発も出色である。新しいハネムーンの仕向地としてのイメージでつくられた,67年から74年にかけての第1次黄金時代に,グアムは近場の海外ビーチリゾートの定番デスティネーションとしての地位を不動のものとした。国内宴会旅行の延長線に見たものは異色ともいえるのは,ジュディ・オングの唄うヒット曲「魅せられて」と池田満寿夫の制作した映画「エーゲ海に棒ぐ」の爆発的人気に便乗して,ギリシャ政府観光局がメディアミックス作戦で成功させた73年~79年のエーゲ海ブームで,その後のFGTO活動のモデルともなった。しかしながら,この年代は,このような優等生的な開発モデルが花開いた時代であったと同時に,一方ではマズローの欲求段階説風にいえば人間の低次元ニーズヘの対応を図った,手近な量販型デスティネーションが次々と開発されていった時代でもあった。それは,当時の日本人が持っていた成長志向の世相・価値観に迎合した,従来から日本国内の各地で盛んに行われていた温泉旅館宴会旅行の延長線上にあって,海外での歓楽。発散の受け皿となったいくつかのデスティネーションである。当時の定期便の輸送力ではまかないきれず,臨時便やチャーター便を数多く動員する態勢の中で,まず60年代に台湾が,そして70年代には韓国が巨大仕向地として成長した。さらに70年代後半には,そこに新しくフィリピンが加わる形となって,まさに二つ巴の様相を呈していたのであった。世論作りと一対多の開発活動この時代の幕開けは「買春観光批判」となった。これは国会でも取り上げられ,当時の大きな社会問題となった。このことは,海外旅行がごく一部の人たちの特別のものから,一般大衆が参加する社会現象の一部として捉えられるようになったこと,それだけ海外旅行市場が成熟し,これ以後はその時々の「世相・社会的価値観」がそのまま大きくプラスにもマイナスにも影響を与える時代に入ることになる変節点でもあったことを意味している。これを機に三大歓楽デスティネーションとなっていた台湾,韓国,フィリピンは一気に凋落の坂道を転げ落ちることとなり,イメージチェンジ後の市場再生までには10年以上を要することとなる。また,情報化社会の進展とともに,素早くかつ多少誇大に伝えられる現地の局地的な情勢不安も,せっかく成長しかけている近隣地区市場全体を突如冷却してしまうというマイナス効果を発揮する場面も度々生じた。フィジーのクーデターや北京の天安門事件がその好例であろう。このように世論が市場動向を左右する時代はまた,「世論づくり」が市場をつくる時代でもある。この情勢判断からであろうか,各国のFGTO(政府観光局)が積極的に日本に進出してきて覇を競うこととなる。FGTOを置かない所は,大使館の観光部やナショナル・フラッグ・キャリアの日本支社や民間の業務受託オフィスがその任にあたった。まさにこの10年間は,「FGTO」主導型の時代であった。「受け入れ地」が中心となって観光客誘致活動を展開する“プレイス・マーケテイング"と呼ばれる観光振興戦略の外国人市場として,巨大なアウトバウンド市場を有する日本がクローズアップされた結果,その激しい競争の中で様々なデスティネーションが開発されていった。この時代の開発活動の特徴は,一対一の組み合わせではなくて,一対多の組み合わせで,一つのデスティネーションに対して複数の航空会社や複数の旅行会社が参画・協力する形になっていることである。この形が日本の旅行市場に与えた影響は大変に大きいと言える。極端に言えば,旅年代υヽ■′‘日ヽ■ J‘,■■″‘ヽ】■J∫∫Fti',多コす●