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概要

35_1964-1999

N T E R V I E VVムープメントの旗手たち最近の旅行業界は、航空業界と堂々とわたり合える力をなくしている1965年にIATA代理店協会と国際旅行業者協会が合併し、JATAの前身に当たる組織が発足した。その後、77年に第1 回のJ A T A コングレス(日本・国際観光会議)が開催されるまでには十年以上の間隔がある。この十数年間に、日本の海外旅行者数は増え続け、日本の旅行会社と海外の旅行業界が接触することも増えていった。「そうした中で日本の旅行業界にも、国際的な発言力を増さねばならないとの認識ができつつあった。個人的にも, PATA (太平洋観光協会) やUFTAA(旅行業者協会世界連盟) の役員として様々な会議に出席していた経験から、その重要性を痛感させられた」。こうした気運の中から、「世界の観光・旅行業界に向けて日本の意見を発信する場が必要だとの議論が起こり、これがJATAコングレスの立ち上げにつながっていく」。開催に向けて精力的に運動し、第1回開催をJATA会長として迎えたが、「果たして日本でこの種のコングレスが成立するか、正直言ってフタを開けて見るまでは実に不安だった。しかし新しい事業にリスクは付き物で、勇気を奮って挑戦する道を選んだ」と言う。結果的には第一回のJATAコングレスは56カ国・地域、959人が参加し、海外からも635人が出席して大成功を収めた。JATA会長を1977年から91年まで、歴代最長の7期14年間務めたが、日本の業界代表として、当時IATAとUFTAAの間で行われていた航空券のコミッション率の引き上げを巡る交渉にも関わった。「78年には手数料率を8%から9%に引き上げることをIATAに認めさせることができたが、これなども旅行業界が世界的に団結して勝ち取った成果、黙って待っているだけでは手数料率の引き上げなどあり得ない。ところが最近の旅行業界は、航空業界と堂々とわたり合える力をなくしているように思える」。旅行業界がさらに発言力を確保するためにも、JATAの存在はますます重要性を強めている。JATAコン開催と国際発言力の強化推進兼松學氏JATA顧問かねまつまなぶ1912年生まれ。大学卒業後,35年に鉄道省に入省。終戦後はGHQの渉外事務局主管や国鉄を経て62年に日本交通公社に入社。副会長を最後に同社を退社。77年から91年まで7期14年間にわたりJATA会長を務める。外国政府観光局の第1号であるUSTS (米国商務省観光局)が日本に開設されたのは、海外旅行自由化を1年後に控えた1963年。その後、自由化と共に外国政府観光局の開設が相次ぎ、66年にはFGTO (在日外国政府観光機関協会)が発足。「USTS局長のマーチン・プレイ氏や英国政府観光庁のジェフリー・ハミルトン氏などが中心になって、観光局同士の横の連携を図るために発案された」。日本政府との交渉機関としての役割もあり、当初はインドやソ連など9観光局でスタート、彼女はその事務方として会の運営を支えた。「初めは共通の悩みを話し合ったり、情報を交換したり。例えばどういう目的の場合に、旅行会社のどの部門を訪ねるべきかといった基本的な情報の交換もしていた。実にオープンマインドな集まりで、先輩観光局が後発観光局に日本マーケットの現状をブリーフィングしてあげたり、海外旅行市場を一緒に育てて行こうとの市場育成を共通目標に、観光局間の交流は今以上に活発だった気運と熱意が強くあった」と振り返る。FGTOが行った最初の重要な対外活動として挙げるのは、「『トラベルマン・オブ・ザ・イヤー』賞の立ち上げ」だ。この賞は、海外旅行の促進や海外旅行業界の発展に最も貢献した人を毎年選んでFGTOが表彰するもので、同賞の発足は「FGTOの活動に対する理解者を増やす意味でも重要な出来事だった」。FGTOはANTOR (在日外国政府観光局代表会議)と名前を変え、活動を続けている。「80年代は海外旅行業界が大いに発展した時期だが、 一方で各観光局間の競争意識が強くなり、ANTORとしての活動は低迷した感がある。90年代には、それに対する反省が生まれ、地方における共同セミナーなどの形で再びメンバー同士の協調関係が強まっている」と見る。「民間企業が観光局のGSA (総代理店)を引き受ける形も増え、観光局の形態も一様でなくなったので、メンバー全体をまとめるのは難しい面もあるだろうが、それぞれの観光局にとって意義のある活動を続けていってはしい」というのがFGTO創設に関わった者としてのメッセージである。サンドラエ蒲生さんビジットューエスエーインク代表取締役さんどらTがもう1937年生まれ。47年,戦後の在日米国人の引き揚げ第一陣として母親の郷里ハヮイヘ。ハワイ大学建築学科在学中にスカウトされ,パンナムのスチュワーデスに。その後、カリフォルニア在住を経て63年にUSTSアジア太平洋支局入局。76年副支局長、91年支局長。97年のUSTTAアジア太平洋支局閉局後、(掬ビジットユーエスエーインクを設立。θ∫~~~1ヽ一¬硯′『 ・「蘊