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概要

35_1964-1999

DEVELOPMENT OF TRAVELINDuSTRY■970-79当時は大型機と見なされていたが,B747のスケールはまさにジャンボであった。初期のモデルB747-100は全長70.5m。従来のB707シリーズの1.5~ 1.8倍であり,座席数は1.8~ 2.5倍の346席。機種によっては3倍ほどにもなった。こうした数字もさることながら,図体はおよそ3~ 4倍,尾翼の高さは19.3mでビルの7階建てに匹敵,まるで巨大なビルの印象であり,全てが人々の度胆を抜いた。また機材の大型化だけでなく航続距離の長距離化や燃費の向上など,航空機技術が目覚ましく進歩した。技術革新が海外旅行促進に直結していた時代とも言える。70年にはJLがモスクワ経由のパリ線やロンドン線を開設,従来の所要時間を2時間以上短縮し,エールフランスもシベリア経由のパリ線を開設する。翌71年にはスカンジナビア航空とKLMオランダ航空がいずれもモスクワ経由路線を開設。その後もルフトハンザドイツ航空(73年),アリタリア航空(73年),モスクワもしくはシベリア経由の欧州北回り路線が続々登場する。太平洋線でもJLが75年にサンフランシスコ直行便やロサンゼルス直行便の運航を開始し,76年にはパン・アメリカン航空がニューヨーク直行便をスタートする。こうして海外旅行者を大量に高速で輸送する手段が確立されていく。●ノウレク運賃の導入と廃止航空機技術の革新とともに,70年代の海外旅行者の増加を後押ししたのがバルク運賃の登場である。69年に既に欧州線で導入されていたバルク運賃は,70年に太平洋線,71年には東南アジア線にも導入される。75年に新太平洋特別運賃の発効により,太平洋線のバルク運賃が廃止。次いで欧州線でもバルク運賃はその使命を終え,その後のGIT運賃に姿を変えていくが,70年代前半の海外旅行を引っ張ったのは,間違いなくこのバルク運賃の存在だった。●急増するパツケ…ジツアージャンボ旅客機とバルク運賃の登場によって,パッケージツアーは爆発的に増加することになる。先行していた「ジャルパック」「ルック」「ダイヤモンドツアー」「ジェットツアー」の後を追うように,70年代に入ると,72年に近畿日本ツーリス成田空港が開港,国際旅客数は21年間で4倍に新東京国際空港(成田空港)が開港したのは1978年5月20日。当初日標の71年4月に遅れること8年,ようやく開港の運びとなった。国際線は中華航空を除きすべてが羽田空港から成田空港に移転した。一番機は翌21日午前8時に到着したロサンザルス発の日本航空貨物機,旅客の一番機は午後12時3分到着のフランクフルト発の日本航空DC-8型機だった。当時の国際線乗り入れ航空会社(貨物専用航空会社含む)は29カ国34社。以後,ユナイテッド航空(83年4月),全日空(86年3月),デルタ航空(87年3月)1ヴァージンアトランティック航空(89年5月),コンチネンタル航空(同6月),AOMフランス航空(92年4月/95年3月から運休),工ア・タヒチ・ヌイ(98年11月/エールフランスの路線を継承)などの新規乗り入れがあり,現在は34カ国1地域49社(99年8月1日現在)へと増大している。半面,パン・アメリカン航空(86年2月),オリンピック航空(94年11月),イベリア・スペイン航空(98年12月)などいくつかの航空会社が撤退していった。成田と結ぶ都市数は,開港時の60都市から89都市(99年1月1日現在)へと増加し1これに伴って旅客の足の便は向上,海外旅行の目的地も一層多様化していった。特にアメリカは乗り入れ航空会社が増加したこともあり当時の9都市から23都市へと激増している。国際線の航空旅客数は開港時わずか596万人(1日平均1万8914人)だったが,98年度は2384万人(1日平均6万5316人)となり,この21年間で約4倍へと増大している。なお当時の出国日本人数は404万人(開港翌年の79年/暦年)で成田からの出国は247万人,98年は出国日本人数1580万人のうち822万人が成田から出国している。出国者の利用空港のうち,成田が占めるシェアは当時61%であったが1関西国際空港の開港堕堅肇量型型塑鰹墜劃とその後のシェア拡大;地方空港の国際化などを反映して年々低下しており,98年は52%となっている。開港以降の航空旅客数(国内線含む)の推移を見ると, 1億人達成(88年3月)には9年10カ月を要したが,その後は便数の増加や日本人旅客の活発な海外旅行意欲などにより1 2億人達成(93年2月)までは4年11カ月, 3億人達成(97年4月3日)は4年2カ月と期間が短縮されている。99年5月までの21年間の累計は3億5351万人にのばっている。一方1関西国際空港は94年9月に開港。ネパール,ブルネイなど日本への新規乗り入れを希望していた国との間で航空協定が結ばれ同国からの乗り入れが実現した。関西空港乗り入れで日本に初就航した航空会社は開港後1年間で6社にのばった。開港時の国際線乗り入れ航空会社は29社(貨物専用航空会社含む)。これは伊丹空港時代と比べて14社の増加である。乗り入れ国(地域)。都市は21カ国(地域)。44都市であった。開港後1年間の国際線旅客数は803万人となり,伊丹空港時代に比べ1.5倍に増大した。成田空港への乗り入れが物理的にほぼ不可能な状況から,関西空港への乗り入れはその後も増加していった。現在(夏期スケジュールのピーク1 9月時点の集計)の国際線乗り入れ航空会社は45社,乗り入れ国(地域)。都市は32カ国。71都市となっている。開港時と比べると,航空会社は16社増,乗り入れ国(地域)。都市は111カ国。27都市の増加である。ただ,前年夏期との比較では,航空会社は1社減少,乗り入れ国(地域)。都市数も3カ国・3都市減少している。これは1 日本経済の長期低迷の影響などで旅客が減少し,夕ヽ国航空会社を中心に撤退や減便が98年下期以降,相次いだためである。98年の国際線旅客数は前年比2%減の1125万人となり,開港以来初めて前年実績を下回った。26,00024,00020,00018,00016,00014.000(万人)2三)枷柵結′7'■…`」田ゝ|.撫喘ぼ..Ⅲ,一――C亜互3-4.000日間彩筋;″ι lol■ 171年度)バルク運賃でハワイの価格も一気に下がった(70年)1カ月)1988年3月0カ月)1990年9月延べ2億人達成 1993年2月(開港以来14年9カ月)1995年:4月997年4月3日力月)2.00083 84 90 91θθ2.179