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概要

35_1964-1999

Qノ∠目6■ 年代?「根」の時S崚レ″ 慟綱|のエボック「海外旅行ゴIMF(国際通貨基金)8条国への移行で外貨の海外持ち出しが原則的に自由化された。1964年4月1日のことである。結果的に海外観光旅行が自由化されることになる。戦後19年目,経済成長の歯車が一斉に回転して,日本は国際社会で一人歩きを始めた。その証しが海外観光旅行の自由化であり,同年10月の東京オリンピックの開催だつた。海外観光旅行の自由化は,20世紀の日本人の歴史にとってエポックメーキングな出来事になった。それまでは,国益貢献の大義名分が揃わなければ,海外渡航は許可されなかった。海外渡航は輸出振興に貢献する業務渡航,留学,文化交流,外交目的か移民が中心だった。従って当時の旅行業界の存在価値は渡航制限のなかで,いかに海外への風穴を開け,渡航者の橋を築くかにあった。旅行者を出発させるための渡航手続きの的確さ,迅速性,対応性などが主機能として求められた。顧客に対しては旅券やビザの取得,外貨申請・購入が初期の基本業務だつた。一方,航空会社に対しては:ATA(国際航空運送協会)規約が全科玉条で,航空代理店としての機能が求められた。旅行商品メーカーとしての意識はあったものの,現実は渡航手続きの代警。代行業であり,航空機や宿泊施設などの予約。手配が業務の根幹をなしていた。旅1行ブランド`の誕生海外観光旅行の自由化は日本人,一人ひとりの目的と意志で海外へ飛び出せる「個人の開国」としての価値がある。それは,「日本の開国」(1868年)からほぼ1世紀を経て築かれた日本人の権利と財産となった。旅行業界は海外観光旅行の自由化を契機に基本的な存在価値が一変する。請負旅行の手続き・予約手配業から旅行メーカーとして旅行を企画・販売。実施するイニシアチブを握ることになるcその象徴が「セット旅行」とも「パック旅行」とも称された観光目的のパッケージツアーである。自由化とともに「ジャルバック」(日本航空),「バンナムホリデーツアー」(バン・アメリカン航空)など航空会社オリエンテッドのパッヶ―ジツアーが輩出し,航空代理店が幹事会社制をとりながら共同販売した。もちろん,JTBなと大手旅行会社は独自にパッヶ―ジツアーを企画・販売したが当初の主流は金融機関や企業・機関とタイアップした共催ツアーだった。旅行会社主体によるパッヶ―ジツアーの第1号はJTBと日本通運が提携した「ルック」(1968年)で,本格的な旅行会社ブランドの皮切りになつた。これに続く形で数社がホールセールを開始して,旅行商品の生産ラインと流通機構の原型が整つた。旅行産業としての根を張る時代だった。400人乗りのボーイング747型機の出現を控え,各航空会社,旅行会社は大量輸送と大量販売に夢を抱き,不安を募らせた。コミッション・ゼロ%という旅行素材型のバルク運賃が登場し,旅行会社はアセンブリーメーカー(素材組み立て業)としての道を歩み始める。大量輸送対応のパルク運賃は1975年に廃止される。結局はコミッション収受の経営体質から脱却できず,旅行会社はメーカーと航空代理店の二足のワラジを履き続ける。この二足のワラジが80~90年代の旅行業経営に大きな影響を与えることになる。航空会社によるパソケージツアーの業界向け広告(66年頃)∞年代の主な出来事●バツケージツアーの登場64年の海外旅行自由化を機に,普通の日本人にとって海外旅行の時代が本格的に幕を開ける。そして,後に日本人の海外旅行スタイルとして定着するパッケージツアーが, 自由化と同時に登場する。まずスイス航空「プッシュ・ボタン」(64年), 日本航空「ジャルパック」(65年),パン・アメリカン航空「パンナム・ホリデー・ツアー」(65年)と,航空会社によるパッケージツアーの発売が相次ぎ,海外旅行の大衆化への第一歩を踏み出した。それに刺激される格好で,JTBが日本通運と提携して「ルック」を発売(68年)。郵船航空「ダイヤモンドツアー」もこれに続き代・代行からメーカい・′ ′ フ量販の生産ライン流通機構の原型整うNORTF 0 R Y 0 U R S E L丁R A V E L A G E N T S 0 U R 9 6 8 0 P E N T A R L N E S臀FF_ばOP′ [N丁uSA THWEST2θNoRTHWEST最け'マン▲――― ――′‐ ― ヽヽキーー