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概要

35_1964-1999

‐ⅢI″しています。田平 35年を振り返ると感無量です。64年には12万8000人,国民1000人当たりで1人しかいなかった海外渡航者数が,98年には1580万人,10人に1人の割合になり,延海外旅行産業35年の総括と21世紀への展望3歳の子供を連れて旅行するといった価値観は,我々の時代には考えられませんでした。森谷 では森本先生,旅行業界にもご縁があるかと思いますが,何か思い出などは。森本 私が初めて海外へ出かけたのは1951年で,パスポート番号は926番でした。半年間アメリカに滞在し,帰国後しばらくは海外へ出られなかったけれど,新聞社で働いていた関係で,61~ 62年頃からは頻繁に外国を旅することができるようになりました。海外旅行産業35年と聞いて,改めて振り返ると,昔と今では隔世の感がありますね。当時は空港でボディーチェックもなかったし,テロといった言葉もなく,フリーパスの時代だった。飛行時間にしても,コーロッパヘは39時間もかかっていたけれど,今では,復路だと9時間足らずでパリから帰って来られる。今後はますます飛行時間が短縮され,便利になっていくことでしょうね。森谷 確かに飛行時間の短縮は需要拡大にも大きな影響を与えました。そのようにして出来上がった1600万人市場ですが,では海外旅行産業が果たした社会的な役割についてどう評価されますか。兼子 まず,高嶺の花だった海外旅行というものを,日常的,かつ大衆的なものにしてきた点は評価すべきでしょうね。パッケージツアー内容や運賃が多様化する一方で,海外旅行費用は一貫して下がってきた。これが日本の海外旅行需要拡大に貢献しています。例えば,35年前のジャルパック「ヨーロッパ16日間の旅」は67万5000円だった。大卒の初任給が2万1000円の時代にです。そう考えると,現在の旅行費用は非常に安いと言えるでしょう。航空・旅行業界の努力の結果ですが,これは物価の最優等生だと自負しています。そしてもう一点ですが,海外旅行産業は,湾岸戦争の経験でも分かるように,世界が平和でないと成り立たないと同時に,大袈裟かもしれないが,人と文化を運ぶことで世界平和に貢献しており,そのプライドを持ってできる仕事だと思っている。湾岸戦争の後に,「ふれあえば,世界はやさしい。私たちは旅を通して,世界の人々の温かい交流に貢献してまいります」というポスターを,国際観光振興会ONTO),日本旅行業協会OATA),国内航空3社が共同展開した。この言葉こそ,航空業を含めた旅行産業の生きがいであると感じています。松山 世界平和への貢献については全く同1411111111111111111illl!:|||お11111''i鮨|、|ヽ々瀧集: ■「 ――lllll■■べ2億5000万人が海外旅行したことになる。ここまでよく来たなというのが実感。ジャンボ機導入で航空アクセスが拡大されたこと,固定相場時代は1ドル=360円だったものが,一時は80円を切る超円高になったこと,また運輸省主導によるテン・ミリオン計画などもあり,官民一体となった需要喚起策の結果でしょうね。この35年間で,日本人も国際化が進んだなあとひしひしと感じています。海外旅行者の約40%は20~ 30代の若い女性。彼女らは胸を張って海外の街を闊歩している。また,当社のお客様では60歳以上の夫婦連れが25%を占める。さらに旅行スタイルも35年でずいぶんと変わってきた。ハワイなどのリゾートのプールサイドや海の渚でのんびりと家族旅行を楽しんでいる長期滞在のお客様が多く見られるようになった。2~21P R O F I L Eふなやま りゅうじ1940年生まれ。62年に東京教育大学理学部卒業後,財団法人日本交通公社に入社。76年に海外旅行営業本部ルック販売部販売課長に,その後国内旅行部エース課長、東京池袋支店長,本社営業本部顧客二部長、経営企画室長,九州営業本部長などを務め,92年取締役九州営業本部長に就任。常務取締役人事部長を経て,97年から現職。一「1 ‐ 1写れを流通主催責任を伴うパッケージ商品を生み,ることで′主体性ある産業としての基盤作りに貢献できたと思う。