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概要

35_1964-1999

場による大量輸送時代のスタートではないか。これは航空運賃体系にも影響を及ぼすほどのインパクトがあり,海外旅行産業も大きく発展しました。その後,1979年の第2次オイルショックで翌年の渡航者数は若千前年を下回ったものの,基調としては右肩上がりの成長を続けてきた。だが,91年の湾岸戦争の時は,日本だけでなく,欧米の航空会社でも旅行者数が著しく減少した。世界的なレベルで航空旅客が前年より減ったのは初めてのことで,その影響力の大きさがうかがわれます。森谷 自由化以降ではジャンボ時代到来と湾岸戦争が時代の主な変節点だと。兼子 そうですね。湾岸戦争の頃から世界の航空会社は,生き残りをかけた大競争時代に突入し,競争の中で航空運賃も徐々に下がっていったわけです。日本航空では92年から構造改革に取り組みました。私は当時,労務。人事担当役員でしたが,海外の航空会社との会合の席では,「サバイブ」「サバイバル」といった言葉が頻繁に出てきたものです。ある会議ではその頃のヒット映画『ジュラシックパーク』に例えて,恐竜のように環境に適合できなくなって死に絶えては大変だと,どう生き残るか議論したのを覚えている。延べ2億5000万人の海外旅行者数は官民一体の需要喚起策の結果森谷 湾岸戦争が起きた1991年はまた,航空再編時代の端緒ともなったということですね。JTBの船山社長,旅行会社の立場からいかが‐で`すか。松山 私は,旅行会社が海外旅行パッケージ商品を生み出し,同時に旅行業が産業として形作られてきたという点で,この35年間の意味は非常に大きいと考えます。JTBは当初,ジャルパックの下請けをしており,その後,独自で商品展開したが,ジャルパックとの差は歴然としており,68年に当時No.2の日本通運との共同ブランド「ルック」を送り出して対抗しました。旅行会社として主催責任を持ったパッケージ商品を造成し,単に手数料収入だけではなく自社商品で適正利潤を上げることによって,ささやかではあるが,旅行業の主体性を打ち出し,産業としての芽を出させることができたと思っています。その後,自社パッケージ商品を流通に乗せることで,海外旅行を引き金にこの業界は産業として成長し,その結果人材も集まり,若い人の就職人気も出てくるという好循環を作ることができました。そういう意味では日本航空は良い道を作ってくれたと2θ思います。森谷 確かに旅行業流通が果たした役割は大きいですね。船山 個人的には,私がJTBに入社したのは62年のことで,まさに海外旅行産業の35年は,自分の歴史そのものです。77~ 78年はルック課長を担当しており,ルック誕生10周年を機に100万人送客キャンペーンを展開しました。当時のことは鮮やかに覚えています。流通面の動きが活発化してきており,提携販売力が問われる時代になるなと感じたのもこの頃ですね。海外旅行の発展にはいくつか理由があります。ひとつには為替を含め経済的な市場環境が良いこと,また航空会社による路線拡張や機材の大型化,プロモーションレートなどの政策による供給増と低価格化が海外旅行需要を生んできたとも言えます。さらに,海外旅行は基本的に「情報」であると考えており, トラジャルをはじめとした旅行業界誌や観光局などがデスティネーション情報を積極的に発信し,関係者が共に頑張ってきたことは無視できません。感謝P Rかねこ いさお1938年生まれ。0後.日本航空に入社。プ次長,83年にはローマ支店長兼ローの後、勤労部長,労務部長を経て,91F LE  業卒97年‐発う・‐屹餃月週彎目っきりしたが,海外旅行産業は′界が平和でないと成り立たな彎び国際交流に貢献した彎