ブックタイトル30_1964-1994

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概要

30_1964-1994

【旅は世につれ,世は旅につれ】▼横浜/ホノルル間で実施された「ワコール太平洋レディスカレッジ」(1970年プレジデント・ウィルソン号), 100人の女性が参加した71年にJASTAが発足1964年~1975年には次のような客船が世界一周,極東クルーズとして横浜,神戸,長崎などに時たま寄港していた。>チワンギ(=RID>プレジデント・ウィルソン,プレジデント・ルーズベルト,プレジデント・クリーブランド(=APD>キャンベラ,チトラル,オリアナ(P&0)>オリエンタル・エスメラルダ(00D>プレジデント(PPD日本からも限られた客船が乗ったが,クルーズはもっぱらイン・バウンド主流のマーケットだった。日本船籍としては大阪商船三井の「さくら丸」(1万2610トン)が68年(昭和43年)に就航,香港/基隆へ処女航海したが,赤字が累積し,苦難の道をたどった。見本市船,国や地方自治体が主催する洋上石刑1勿拾(青年の船)などが事業の中心になり,一般公募の純クルーズは困難な時代が続いた。それでも「グアム洋上カレッジ」(さくら▲いまは懐かしいP&0のチトラル号丸,71年),「グアム・クルーズ」(コーラル・プリンセス,72年)など日本の船旅は船舶会社の情熱と意地によって航跡は細々とではあるが保たれた。90年には日本全国から100人の女性が参加して横浜/ホノルル間で「ワコール大平洋レディスカレッジ」(西アメリカン・プレジデント・ライン)が実施された。「クルーズの火を消すな。航空機の旅とクルーズは価値が異なる。旅行代理店のなかにクルーズ・セールスのソフトウェアを広めよう」商船三井客船などの呼びかけで1971年には「日本船旅の会(JASTA)が発足した。客船会社5社と旅行会社2財土力功口わり船旅の振興と販売促進で地道な活動をスタートさせる。翌年には「新さくら丸」(1万6431トン),75年には「にっぽん九」(当初は「セブン・シーズ」号,91年海外へ売却)力涼尤航して,船上サービスのソフトを伝える場ともなった。▲クルーズブームの中, 1991年「飛鳥」が就航したむ若い旅行者が増えた。アラスカ,カリブ,地中海など一握りのクルーズ。ファンが行動半径をひろげた。88年には電通,サッポロビールなどが7社共同出資のクルーズ運航会社MLD(マリン・レジャー開発)を設立,約半年にわたってQEIIをチャーターした。また日本旅行はオーシャンパール(1万2,456トン)を長期間チャーターし,クルーズ市場開発に挑戦した。そして89年(平成元年)。この年は「クルーズ元年と呼ばれ,再び客船の時代が戻ってきた。「おせあにっく。ぐれいす」(昭和海運,5,218トン),「ふじ丸」(商船三井, 2万3,340トン)が力鮭工した。90年には「クリスタル・ハーモニー」(日本郵船系, 4万8621トン),「にっぽん丸」(商船三井, 2万1,903トン),「ソング・オブ。フラワー」011崎汽船,8,282トン),「おりえんと。びいなす」(日本クルーズ客船2万1,884トン),「フロンティア・スピリット」(日本郵船系,6,752トン)が涼尤航した。91年には「飛鳥」(日本郵船, 2万8,717トン)が自い軽やかな船体を浮かべた。海外旅行者が1000万人を突破したのと同時に,本来のクルーズの豊かさを求めて,日本にもクルーズ時代がやってきた。外航船客は約20万人だが,そのポテンシャリティが期待されている。95豊かさを求め船旅が再生1980年代にはRVL(ロイヤル・バイキング・ラインズ)の「ロイヤル・バイキング・スター」(2万8100トン),「ロイヤル・バイキング・シー」(2万8000トン)など豪華客船が日本へ寄港し,クルーズ党の夢に応えた。またフライ&クルーズではエーゲ海ブームでョーロッパ旅行の中でクルーズを楽し=踵目L一ヽ′