ブックタイトル30_1964-1994

ページ
93/276

このページは 30_1964-1994 の電子ブックに掲載されている93ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play

概要

30_1964-1994

【旅は世につれ,世は旅につれ】モニター,年金……さまざまなアイデアt網`Tの澤丼旅,`9Jレッリ▲1969年ルックの公式第1陣が出発,下期には1900コースが発表された▼OAやCRSが普及するまでは,旅行会社のカウンターではソロバンが主役だったく1971年,円が|ドル=308円に切り上げされ海外旅行も増加した金旅行プラン」である。年金を積立てて旅行資金の一部にしようという提案型の商品である。政府。厚生省から,旅行に使うのは年金制度の趣旨にそぐわない―との見解も出されたが,老いて好奇心が強く,元気な人びとにこの旅行プランは支持された。ルする販デコ幾能としてCRS(コンピューター・リザベーション・システム)が航空会社には不可欠な販売ツールになった。ホールセーラーによるパッケージツアーの商品流通,1970年に導入されたBSP(銀行集中決済方式)による金融流通,そしてCRSによる情幸田充通のシステム・メーカーとしての航空会社間の企業競争が80年代以後,激しくなった。CRS,ネットヮーク,FFPの三矢作戦が航空会社の生き残りにとって重要になってきた。旅行商品セールスは手作り型からマス・セールスとなり,カウンターでは短時間に効率よくセールスするクーポン方式の商品も開発されてきた。オール・インクルーシブのパッケージツアーは,因数分解されたモジュール・タイプからコンポーネント・タイプの部品組み合わせ型に形を変えてきた。もはや, コンピューターのバックアップなしでは,対応できないほど旅行商品が多様化。多種類になってきた。その一方で,人間対人間による旅行セールスの原点に回帰する販売が見直されている。高額商品やクルーズなどは,昭和40年初期のセールスマンの個性をいかんなく発揮したセールス手法で成長している。コンピューター機能を活用した無人販売と人間臭さを前面に押し出したセールスに2極化しているのが海外旅行自由化30年目の現実である。日本通運がタイ国政府観光庁と提携した「モニター旅行」は;メディア・セールスの先駆をなすものだった。タイ・ホテル協会,バス協会などタイ旅行業界の協力で読売新間に1ページ広告を打った。クチコミで旅行セールスするキッカケ,話題作りとして打った広告の効果は約1000人の応募になった。「バンコク,パタヤビーチ5日間」で10万円の費用負担。30~ 40%安い旅行で,参加者はアンケートに答えるかたちで“モニター"した。その後, 日本通運は7カ国のモニター旅行を実施して数千人を集めた。いずれも,新聞広告などメディアを活用したセールス手法だった。海外旅行は人間が売るヒューマン。ファクターの強い商品, という定説をくつがえすツアー広告で,昭和60年代に活発化するメディア・セールスの“モニター''も兼ねたチャレンジだった。海外観光旅行が自由化された昭和39年に流行した積立て旅行は, トラベル・ローンの月賦販売に発展した。バルク,GIT運賃の導入や円切上げ,所得の向上で海外旅行は一般消費財の仲間入りをしてきた。もう,資金を積立て旅行するほどの高嶺の花ではなくなっていた。しかし,「高齢化社会を向えた日本」という観点からみると, もうひとつの積立てが浮上してきた。日本交通公社が開発した「年´、. ■瘍鋼多極化する販売拠点を結ぶCRS1978年に導入されたITC(包括旅行チャーター)は成田,大阪を除く地方空港でのみ認められた。「地方の時代」へ拍車をかける新運賃制度になった。旅行会社の地方支店,営業所は独自に仕入れ・企画・販売を行えるようになり,東京。大阪を軸とする1極集中型の販売体制に変化が起きた。地方自治体や地元組織を中核としたチャーター機による海外パッケージツアーが実現し,エリア・マーケティングの強化が求められた。ローカル空港の“国際イビ'はその後も活発化し,成田,大阪を表玄関とする日本の国際線路線網が地方に拡大した。航空交渉の乗り入れ地点が増加することになり,外国航空会社がローカル市場を活性化させる源動力になっている地域も出てきた。こうした地方への市場拡大をコントローユ|9′