ブックタイトル30_1964-1994

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概要

30_1964-1994

その①「積立て旅行」から始まつた海外旅行販売ブランド第1号はスイス航空「ブッシュボタン」1プラ,そして2プラヮ3プラ。1.5プラなる中間商品も現われている。お客さんにとってはヮぃったい何のことか分かりlスいほどプランドが細分化されている。パッケージツアーの販売手法が続々と開発されるのに正比例して,商品群も細分化されている。この30年間ヮ「高嶺の花」だった海外旅行のセールス手法はどう変わったか,それとも変わらなかったカーー。セールスマンの足跡をふり返る。主催旅行の原型「テクニカノン0ビジット」海外パッケージツアーのプロット・タイプは昭和30年代の半ばに急増した視察旅行(テクニカル・ビジット=TV)である。高度経済成長に離陸した日本は,企業や機関のエリートたちが欧米の先進諸国の知識を求めて,グループで視察旅行に出掛けた。外貨事情が厳しかった時代である。この時代に,どうすれば最も効率よく業務。視察旅行ができるか。そのノウハウを持っている旅行代理店がオーガナイザーから白羽の矢を立てられた。貴重な米ドルをどう確保するか。業務渡航が日本の貿易輸出にどのように貢献するか。視察先の選出,情報収集……海外グループ旅行のノウハウもこの時代の産業視察旅行によって築かれていったといってよい。テクニカル・ビジットは,海外観光旅行の自由化を控えた旅行業界のテクニックをみがく機会を与えたともいえる。「日本交通公社70年史」は,このころの旅行業務を“昭和の遣唐使の水夫''と表現している。日本を世界の先進国へ押し上げた原動力のひとつとして,テクニカル・ビジットがあり,そして旅行代理店が存在していた。「海外観光旅行が自由化される」という期待のもとに,旅行代理店が着日した販売手法は「海外旅行積立プラン」である。その先手を打ったのは日本交通公社だった。1963年(昭和38年)の旅行実施を目標に,60年頃から日本旅行倶楽部の会員を対象に旅行資金の積立て計画が行われた。同旅行倶楽部事務局は三井信託銀行と協議し,為替管理の緩和を条件に海外旅行資金の積立を会員に呼びかけた。60~ 61年の大卒初任給は1万3000円~ 1万5000円。海外旅行の積立て目標額はハワイ35万3,000円(8日間), ヨーロッパ周遊75万円(25日間),アメリカー周73万円(20日間),東南アジア周遊35万3,000円(15日間)で,一戸建ての家が手に入る額だった。東宝映画「社長漫遊記」シリーズがヽ「海外ロケ挙行」をうたい文句に大ヒットしたのもこの頃だった。▲自由化後の海外旅行は“積立て"が主力,銀行側も“積立て"をセールスしていた|ステイ′7り40シンボルだったIパスポート1964年4月。海外観光渡航が自由化された。その第一陣のハワイ旅行も第一銀行(当時)とタイアップした積立て旅行だった。1人1年1回500米ドルの持ち出し外貨ワクが襦忍められた。しかし,お土産代までを合めると, 1人の旅行者が遣えるドルは限られていた。自由化第1陣ハワイ旅行のお土産は,当時では国内で高級だったパイナップル。ハワイのツアーコンダクターの部屋にはパイナップルのケースが山と積まれた。86パツケージツアー・セールス手法編15,響ヽ,.轟′,甲ヽ‐ .覇、いヽ鴨‐ヽ畢織ヽ1菫ヽ一●Lロ|‐ |■ 1● ■■ ・■: