ブックタイトル30_1964-1994

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概要

30_1964-1994

ベトナム,カンボジア,中東,ツーリズムは平和への架け橋1975年に戦乱から解放されたベトナムに,今ヮ旅行者が訪れている。PKOの派遣以来注目を集めたカンポジアのアンコール遣跡も一部開放された。そして,シリアヮヨルダンヮレバノンの3カ国もイスラエルとの交渉再開で中東和平に回復の兆しが見える。旅行は平和への架け橋だ。2つの中国問題と旅行業界ツーリズムは世界の誰からも反対されることのない唯一の「イズム」である。このツーリズムも流動する国際政治の関連で,大きな影響を受けることがある。第1次石油ショックの起きた1974年4月に締結された日中航空交渉の発効により,日本は中国と台湾の二者択一を迫られる。同協定は72年の日中国交正常化以来の懸案事項で,74年9月29日,日本航空と中国民航の相互乗り入れが開始されている。これに伴い中国旅行への門戸が開かれたことは,日本人にとって大きなプラスとなった。しかし,一方,北京に乗り入れた日本は台湾路線を失うことになる。日中航空協定に終始反対の立場を表明してきた中華民国政府(台湾)は4月20日, 日本政府に対して日台路線の運航停止と台湾上空通過権の停止を通告。このため,事実上,公的には両国間の交流は断絶した。日本の旅行者にとって人気デスティネーションである台湾は,74年時点で43万8911人が訪問している。この旅客需要が外国航空会社に吸収されるため,日本航空の喪失利益は年間97億円に上るとされた。一方,旅行会社もこうした状況変化に対応するため,別会社に台湾旅行の主催を移管。両者の面子を立て変則的な形で義務の継続を図る。このような日台間の断絶に対応するため,1975年には日本航空の100%出資による日本アジア航空が設立され, 日台間の民間レベルによる取り決めに基づき7月9日から運航を開始。中華航空も日台路線を再開し,断絶中に失職した日本支社社員も職場に復帰した。このケースは,国際政治が旅行業界に直接的な影響をもたらした特異な事件として,1970年代の記録に残される。一方,中国も内政面に変革が起きる。1979年には毛沢東はじめ「4人糸国の追放を契機に,中国旅行自由化への路線が促進され,飛躍的な発展を遂げる結果となる。日中交流の側面を物語る政治劇の1ページであった。|ギ|〕ごLム,カンボジア,1975年,サイゴン(現ホーチミン市)の解放により,ベトナム戦争は戦乱の幕を閉した。戦火にさらされた民衆も参戦した米兵も,ともに被害者である。その後,枯れ葉費0による大地の荒廃とボートピーカレ問題で世界の注目の的となった。ベトナム社会主義共和国は航空各社の運航再開に伴い,1980年後半から90年代にかけては, 日本人海外旅行者も戦跡訪間など▲緊張感高まるイスラエル/ヨルダンの国境線(1989年),中東観光発展のためにも完全な和平実現が望まれている7■政治と観光編10鋏】回中―トレーーー■■■.鶴11「醒団¨圏”圏ぽ  一霊饉■■■国な‐F l、口    鑢「.卜R.」●“″″″"歯【l亀巳顧下~囲編■目日ヽ■嗜●目■1Ⅷ調細炒麺覆質‐ 攀I.ヨ欝.■1ぼ¬■饉」黎‐鶴)・‐`′」:‐援