ブックタイトル30_1964-1994

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概要

30_1964-1994

海外旅行の増大とともに航空機事故も多様化,望まれる安全基準の確立安全に海外を旅行するというのはヮ昔も今も変わらない願いである。航空機事故は自動車事故に適うよりも確率は低いが,日本人海外旅行者が増大するに連れて,その傾向は大きく変わってきている。▼ 1974年バリの山中にバン・アメリカン航空機が墜落。捜索は困難を極めたお守りを持って飛行機に搭乗ツアー客への事故対策が問題に1960年代は世界的に国際航空路線網が発達した時期で,すでにDC8,B707といった大型ジェット旅客機がその主役を担っており,安全面に関しても,かなり高い信頼を得ていた。が,ひとたび躊事故が起きると大きく報道され,航空機の安全性の向上とは裏腹に,航空旅行に対する警戒心がまだ根強かった時代でもあった。特に海外渡航自由化後間もない1966年3月4日には,カナダ太平洋航空力羽2田空港で進入灯に激突して64人が死:亡。その翌日にはBOAC機が富士山付近で空中分解して124人が死亡と,連続して起こった事故は当時大きなショックとなった。当時, 日本の国際線運航を一手に行っていた日本航空は無事故記録を更新し続けていたが,飛行機そのものがまだまだ珍しい時だっただけに感覚的に不安を抱く人も多く,「飛行機に乗る」と言うと,必ずと言っていいほど,保険ではなく“お守り''を懐に忍ばせていく時代だった。たのが1977年,カナリア諸島の空港で起こったジャンボ機同士の衝突事故で,583人が一度に死亡している。3年前の1974年には,パン・アメリカン航空のB707型機がレヾり島で墜落,日本人29人を含む乗客乗員107人が全員死亡する事故が起きている。この頃になると, 日本人の海外渡航者は年間300万人(77年以降)を超え,海外旅行も一般的になりつつあったが,その半面,海外で日本人が航空事故に遭うケースが増えてきた。77年には日本航空機がマレーシアの山中に墜落,79年にはニュージーランド航空機が南極で山腹に激突して257人全員が死1亡。両機には日本のツアー客も搭乗していたため,航空関係者だけでなく,旅行会社にも事故対策の大きな教訓を与えるものとなった。また,1981年に起こった台湾の遠東航空機事故では向田邦子さんなど日本人ツアー客が含まれていたが,国内線だったことからその補償額をめぐって問題になった。ツアーなどの場合には,航空会社の補償やその国の制度とは別に日本の実情にあった補償制度を設ける必要性があるなど,本格的な海外旅行日罰tの幕開けを前に新たな問題が表出した事故でもあった。1970年代に入ってジャンボ機が登場すると,航空機の安全1生が一段と向上したものの,事故時に大量の犠牲者が出ることが心配されるようになる。それが現実となっ7θ|海外航空機事故編8