ブックタイトル30_1964-1994

ページ
58/276

このページは 30_1964-1994 の電子ブックに掲載されている58ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play

概要

30_1964-1994

戦後は合併・再編の道を歩む航空企業の体質強化が今後の課題第2次世界大戦後ヮ日本の航空運送事業は目覚ましい発展を遂げた。エポックとなったのは,世界的な航空規制緩和の潮流に乗って打ち出された新航空政策(1986年)。これにより国際線複数社体制が実現し,これ以降,航空運送網は急速に整備・充実され航空運送事業は国際化の時代ヮ地方の時代の重要な担い手となっていく。戦後,民間資本の会社が続々設立日本の空に戦後初めて日本の航空機が飛ぶようになったのは,敗戦後6年経った1951年(昭和26年)の日本航空(ノースウエスト航空に委託運航)からである。52年から53年にかけて,それまで]慢を重ねてきた戦前一戦中の航空人たちによる民間資本の航空会社が次々と設立された。日東航空,青木航空,極東航空,富士航空, 日本ヘリコプター(日ペリ),中日本航空,北日本航空,東亜航空などがそれであった。しかし,安全を至上の命題とする航空事業は多額の設備投資と高度の技術レК準を要求されるため,国の保護を受けた日航以外は経営不振を極め,合併。再編の道を余儀なくされた。58年には日ペリと極東航空が合併して全日本空輸が発足し,海外観光渡航が自由化された64年には北日本,富士, 日東の3社が合併して日本国内航空が設立されたがヽその後,紆余曲折を経て71年には東亜航空と合併して東亜国内航空が設立し, 剛紀全日空,東亜国内(現:日本エアシステム)の3社態勢となった。ちなみに,外国航空会社の日本乗り入れ一番機は,米国ではノースウエスト航空(46年8月羽田)で,パン・アメリカン航空世界一周路線の羽田乗り入れが47年6月,欧州路線は英国海外航空,現在のブリティッシュ・エアウェィズ(48年3月岩国,49年11月羽田),カナダからは48年9月,スカン56▼東南アジアからは,台湾のCATが1951年に乗入れた長期にわたった国際線1社論▲戦後,欧州路線では英国海外航空(BOAC)が,最初に日本乗入れを開始したジナビア航空は48年4月,東南アジアでは台湾のCAT(51年12月羽田),同年12月にはKLMオランダ航空などハ続々と乗り入れて来た。件が世人の耳を驚かせた。各航空会社の事業分野については,70年の閣議了解事項およびそれを具体化した72年の運輸大臣通達が,その後の事業分野の決め手となった。別名「航空憲法」と呼ばれ,わが国の航空政策を規定していくことになった。この憲法による各社の路線配分は, 日本航空は国内幹線および国際線の運営。全日空は国内幹線およびローカル線ならびに近距離国際線(ただしチャーター運航),東亜国内航空はローカル線の運航であった。全日空力濤刀めて香港向けにチャーター便を飛ばしたのは71年で,近畿日本ツーリストの集客によるものである。なお,上記「航空憲法」では過当競争を廃して「共存共栄を図ることが主眼と航空政策については,1965年12月の航空審議会答申の「国際線1社,国内線2オ劃により,それまでと同様外国勢に対抗する航空企業は1社とされた。企業認可,路線配分,機種の選定等々にはさまざまな権益の入りやすい要素があり,政治的な動きが多いなかで,後の一連の政界汚職の先駆けとなった,“ ロッキード"事||航空運送事業編