ブックタイトル30_1964-1994

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概要

30_1964-1994

運賃の導入は,特に日本の旅行市場に大きな刺激を与え, 日本人の海外旅行の大衆化を促進させた点で,一時代のヒーローの役割を果:たしている。1970年3月11日。パン・アメリカン航空のB747型ジャンポジェットの1番機が,羽田東京国際空港に到着。これを機に,いわゆる大量高速輸送時代が本格的に稼働を開始することになる。こうした時代の要請に対応するため,旅行業界には新たな動きが起こった。パッケージツアーの卸売りを専業とするホールセーラーが相次いで開業する。1969年7月には中堅旅行会社6社の共同出資によるホールセールのは}世界旅行(現ジェットツアー)が発足。大手では,日本交通公社と日本通運の業務提携によるルックが誕生。ジャルパックは自社ブランド商品の生産と販売を目的とした帥旅行開発(現ジャルパック)を設立するなど,各社相次いでホールセール部門を設立,自社ブランドのパッケージ商品の販売強化を図る。そして,このパッケージ商品の大量生産が, 日本市場における新たな海外旅行需要を創出すると同時に,大衆化路線への大いパイプを作ることになる。そしてホールセーラーが企画・造成した各社のブランドパッケージを,小売り店(リテーラー)が店頭販売する旅行業界内の商品流通システムカ漸雀立される。ちなみに,前述3社以降に発足したホールセーラー・プランドには,ホリデイ(近畿日本ツーリスト),マッハ(日本旅行),ダイヤモンド(郵船航空),グリーニング(阪急交通社),トップ(東急航空)などがある。その後, グリーニンえ トップは93年の業務提携により合併,ヴィータとして新規発足しており,JTB, 日通によって開始されたルックは,業務提携を解消し,ルックJTBとルックワールド(日通)として再発足を遂げている。ジャンホ潮蘭認年後の1973年,日本人の年間総渡航者数は228万8966人,前年比64>ジャンポの劇〕抗を機に海外旅予者は一気に増大していった(羽田空港)%と驚異的な伸長を遂げる。こうした背景には, 日本経済の高度成長と,前章で触れたパッケージツアーの量産態勢の確立が大きく影響している。そしてまた旅行代理店も,海外旅行初期の手続き業務を主体とした「代理業務」から,旅行商品の企画。生産。販売を一貫して行うメーカー機能が強まってくる。このあたりを境にして「旅行代理店」という呼称と「旅行会オ」という呼び方が併用されるようになっている。1970年代の日本の旅行産業の業態は大別すると,①主催旅行の生産と直接販売のみを専業とする旅行会社,②主催旅行とパッケージ旅行を小売りする旅行会社(リテイラー),③パッケージ旅行の専業卸売り会社(ホールセーラー)の3つに機能分化する傾向が出てきた。そして,これにプラスされるのが現地の旅行手配を担当する,④ツアーオペレーターとなる。また,国内では外国人旅行者の旅行手配を行う「外人旅行」が主な業務と言える。こうした状況を総括してみると,海外観光渡航の自由化から団体旅行の発生,チャーター,パッケージ旅行の誕生を経て大衆旅行商品の量販時代に至る過程は必然的に旅行産業「業態整備の時代」へと移行させたと見ることができる。その意味では,自由化の1964年以降の10年間が, 日本の旅行産業にとって“急成長の第1フェーズ"に当たる。だが, 自由化以来, 日本人海外渡航者が初めてマイナス成長に直面したのは第2次石油ショックの発生した1980年で,渡航者総数は390万9333人。前年比3.2%減であった。順風満帆の海外旅行にも陰りが出た。その要因は,燃料の高騰から前年来2度にわたる航空運賃の値上げが旅行商品価格を圧迫したのと,社会情勢に反応した消費者の買い控えが需要を冷え込ませたため。こうした低迷状態を脱する対策として,1981年に新聞広告利用による一般募集という販売手法が登場したのは大きな変化である。旅行会社の販売形態は,カウンターセールスと,個別セールスという形力γ走来の手法。新聞募集は,全く角度を変え,全国紙への広告掲載により不特定多数の旅行者を集客する手法である。こうしたマスメディア(媒体)利用による販売手法が行われた背景には,海外旅行人口の拡大に伴い,特定少数対象の販売手法だけでは,旅行会社の集客に限界が出てきたことを意味する。いわゆる従来のはえ縄漁法からトロール漁法への転換である。一方,消費者である旅行者も,旅行商品の増大に, より多くの選択肢を求め始めており,「消費者選択の時代」の傾向が強まる。年間渡航者数400万人という一つの壁は,海外旅行に携わる旅行産業にとっても,新たな挑戦となってきた。こうした状況下で,1978年5月20日には,成田空港(新東京国際空港)が開港。海外旅行の舞台は,羽田から成田へと展開する。▲ 1978年5月成田空港がようやく開港にこざつけた●太平洋新時代編バンナム雲海の彼方に去りユナイテツド日本に乗り込む1986年2月12日。夜の成田空港にはパン・アメリカン航空社員の振るペンライトの光が蛍火のように揺れた。アメリカを目指し,三度と帰らぬ3機の編隊は相次いで雲海の彼方に消えて行つた。日本就航以来,39年間にわたり大平洋線を運航してきた同社の撤退劇である。世界の空に航空不況強まる純自の機体に鮮やかなライトブルーのライン。「世界の翼」として君臨してきたパン・アメリカン航空が, ドル箱路線の大平洋路線をユナイテッド航空(UA)に売却じたのは1985年4月22日。その背景には,アメリカ政府の航空規制緩和政策(デレギュレーション)に抗し切れなかった同社の企業体質が招いた経済的破綻が原因であった。この「帰らざる編隊」が飛び去ったのと入れ違いに,UAの第1便が成田の新東京国際空港に到着。主役の交替を目の当たりに見せられる厳しい一幕であった。また,1985年4月には難行を重ねていた日米航空交渉が合意に達し,米国からはアメリ急成長から一歩足踏みの70年代曇5′