ブックタイトル30_1964-1994

ページ
54/276

このページは 30_1964-1994 の電子ブックに掲載されている54ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play

概要

30_1964-1994

ザ・団体旅行が世界の街を行く「ザ・ノウキョー」(農協)の団体旅行は一躍,海外に名を轟かせた。だが,団体旅行は農協だけの代名詞ではない。海外観光渡航自由イじ以降の旅行形態は団体旅行が主流である。添乗員のかざす「団旗」を先頭に,旅行者は初めての外国の都市,名所,1日跡を整然と列を組み見学して歩く。肩には35ミリと8ミリカメラのたすき掛け。腹巻きにはヤミドルを忍ばせて旅行するという日本人特有のスタイルに,外国人は目を見張った。しかし,こうした旅行形態が主流を占めたのは,外国における土地不案内と, 日本人の持つ言語障壁から旅行者の安全を確保する唯一の自己防衛手段であった。ベテランコンダクターに言わせれは子供は絶対に迷い子にはならないそうだ。はぐれるのは常に大人であり,極端なケースではパリではぐれて,ロンドンまでタクシーで追い掛けてきた老人客もいる。当時は,旅行会社社員も海外に不慣れなら,お客の方も真剣だったのである。海外の事例を見ると,英国における団体旅行の発祥は,1838年にウエイドブリツジの人を隣の町のポドミンヘ運ぶために特別列車を仕立てたのが最古という記録がある。この旅行者たちは列車に乗り,隣の町で2人の罪人の絞首刑の見学をした(ダニエル・ブーアスチン著“The lmage")。一方,航空旅行では,アメリカで1927年(昭和2年)に, トーマス・クック社が,ボクシング史上で有名なロング・カウントで騒がれたジャック・デンプシーとジーン・タニーのヘビー級タイトルマッチの観戦旅行を主催している。その時のお客はニューヨークからシカゴまでガイド付きのチャーター旅行を体験している。このトーマス・クックは,英国の名門旅行代理店の創始者だが,本来は季わしヽな禁酒運動家で,1841年に禁酒をPRするための団体ツアーを組織している。また1845年にはレスター/リバプール間の旅行を催行。旅行業史上,営利目的による最初の主催旅行と記録されている。このように,団体旅行は洋の東西を問わ52▲当時のハワイはまだ高層ホテルがなく殺風景だったず,旅行形態の定番として順調な成長を遂げてきた。だが,前述のように,同じ団体旅行でも,アメリカの場合は航空チャーターという新たな旅行形態が開発されている点が注目される。●旅行形態変革編「香港夜這いチャーター」から国産ジャルバツク誕生と旅行形態に変革の波誰もが行ける海外旅行時代の到来は,同時に新たな旅行形態の変革をもたらした。「必要は発明の母」。日本の旅行業界は,廉価大量送客の手法として航空チャーター旅行を開発する。他方,新たな旅行形態として1人でも行けるセット旅行のジャルパックが誕生,人気を集める。日本のチャーター旅行は近ツリが開発海外観光渡航自由化の1964年は,東京五輪の開催年であった。この年,近畿日本ツーリストはヨーロッパを対象に航空チャーター旅行を実施,3000人の旅行者を送客した。これは,五輪選手を日本へ輸送した帰り便を利用してピストン輸送で大量送客するという,当時では画期的な旅行形態であった。さらに同社は,1960年代に日本人旅行者の人気観光地の1つであった香港を対象に大量のチャーター旅行を実施。このチャーターは,夜間に香港に駐機している外国航空会社の機材を安くチャーターし大量輸送するという手法で,夜間を有効に利用するため「香港夜這い便」と呼ばれた。こうした大量送客により,香港への日本人旅行者増大に大きな役割を果たしている。このような経緯を見ても分かるように,初期の海外観光旅行は旅行代理店主催の定期便利用の団体旅行と,チャーターによる大量団体旅行が, 日本人の海外旅行者を飛躍的に増大させる原動力となっている。そして現在でもこの航空チャーター旅行の形態は,地方空港の国際化に伴い,地方発の大型団体旅行に効力を発揮している。国「ローンで行ける,添乗員付き,海外旅行の缶詰め」というCMで登場したジャルパックが販売を開始したのは,観光渡航自由化翌年の1965年。発売と同時に非常に大きな反響を呼ぶ。この航空,宿泊,観光という旅行素材がワンセットになっている包括旅行は,欧米ではすでに実用化されており, 日本国内でも外国航空会社主導によるパック旅行が旅行代理店を通じ販売されていた。だが,国産では初の商品企画。このため,初期の運営は日本航空(JDと担当幹事会社の旅行代理店11社によって行われ,旅行代理店4鉢土を通じ販売された。1965年4月に出発したジャルパック第1陣「ヨーロッパ16日間コース」の価格は67万5000円。世界一周並みのデラックスさだ。これに参加したお客は前日からプリンスホテルに泊まり込み,ホテルの使い方を研修してから出発したという。一方,これを迎えるJu毎外支店は緊張の連続。お客が到着すると,その夜は支店長主催のディナーパーティーに招待。無事出発すれは「ジャルパック。ただ今,無事ローマを通過」というテレックスが沐目次いで東京本社へ打電されてくるという騒ぎである。まさにVIP並みの接遇であった。また,JLではジャルパックの発売と同時期に「フライ。ジャパニーズ。キャンペーン」を強力に推進しており, ジャルパックも,外国航空会社との競合下で同社の搭乗率を増大するためのマーケティング戦略の一環であった。一方,1960年代には,旅行代理店が独自の企画で募集する主催団体旅行もチャーター,パッケージと並行して各社から催行さ