ブックタイトル30_1964-1994

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概要

30_1964-1994

他の外国の中にも日本に政府観光局を開設する所が現れ,デスティネーション間の競合が始まり,私どももプレッシャーを感じたものです。そうした環境下で,米国系航空会社や米国のサプライヤーの中に,アメリカはビジネスが欲しいのだということをもっと日本の産業に周知すべく何か印象的なことを行うべきだという声が出始め,そうして始まったのが私どもが便宜的に“USA10o"と呼称する旅行産業を対象とした大イベントの開発でした。同イベントは,週末に日本各地から旅行会社の関係者100人を静岡県・熱海に招き,米国のサプライヤー50人ほどと飲んだり,食べたり,研修したり,はたまた余興に興じたりするもので,招待客は北は北海道から南は福岡までに及びました。米国駐日大使主催の昼食会で始まり,午後はスライドと映画を使っての終日セミナー,その後,ホテルで一番広い宴会場でカクテルが用意されました。その宴会場というのが, 日本で初めてのトラベル・トレード・ショー「USA トラベル・トレード・ショー」が開催された場所です。夕食はお祭りのように盛り上がり,マーチン・プレイ氏が紋付き。袴姿で司会役を務め,エンターテイメントは米国からの参加者が担当するといった具合でした。パーティーは夜遅くまで続き,お開きになるのはホテルのお酒を飲み潰し,朝日が空に色づく頃といった調子。今でもこのイベントに参加した人たちは,一番記憶に残る体験だったと口を揃えて語り,また同時に, もう一度やるだけの体力はもう無いと嘆いたりしています。70年代半ばまで日本人観光客の間に米国ブームが続き,1974年まで毎年2桁の伸びを示し,米国は常に20%のマーケット・シェアを握っていました。そのブームに大きく貢献したのは,“ Can Mex USA''というカナダ,メキシヨ,米国の北米3カ国に日本人ジャーナリストを招待するといった独創的なプロジェクトや,20世紀フォックスと映画『幌馬車』の封切りでやったような映画会社とのタイアップ・プロモーション,さらには60人ほどの一般紙・誌の編集長から成るヤング編集長の会を結成し,米国に関する肩の凝らない意見交換会や討論会を行うなどといったことで,これにより合衆国についての記事が至る所で掲載されました。また,1970年の大阪万国博覧会ではUSAパビリオンとは別個に,Visit USAパビリオンを特設し, 日本人旅行者が楽しめるバラエティーに富んだアトラクションの紹介に努めました。このエア・ドーム式の“Visit USAバルーン"では,「America the Beautiful」というタイトルが付いたウオルト・ディズニー社制作の180°大画面が話題となりました。その後,東京に運ばれ1971年夏に豊島園で,当時の宇宙飛行士が初めて月から持ち帰った“月の石"とともに3カ月間公開されました。これにもたくさんの入場者があり, また多くの報道機関が記事として広く取り扱いました。この頃は,する事なす事すべてがうまくいくように思え, さらに多くの日本人旅行者が米国を訪れることになったのです。31年ロヘ移行する重要なトランジット期間が,1975年,突然のようにオイルショックに襲われ,米国は初めて日本人旅行者の減少という事態に直面したのです。1976年の米国建国200年祭でさえも,日本人観光客誘致の決め手にはならなかったのです。日本人旅行者数が再び伸び始めたのは,1978年に景気が回復してからのことでした。この間,新たな試みが何度も行われました。例えば,“tour development"のプログラムもその1つです。これは主要ホールセーラーと契約を結び,新規に米国旅行商品を造成してもらう代わりに,ツアーカタログの制作費やプロモーションのための活動費用を拠出しようというものでした。そのお陰もあって,80年代初頭に一時的な落ち込みはあったものの,概して訪米日本人旅行者数は1984年以降,毎年順調に伸び続けました。ところが,1993年ついに景気後退によるツケが業界全体を覆うようになり,昨年は過去10年間で初めて日本人入国者が減少するという事態に陥りました。今日, 日本には世界60カ所の政府,州,県,そして都市の観光局があり,この有望な日本市場でのシェア拡大を目指して激烈な競争を繰り広げております。それぞれが独自の方法で日本人旅行者獲得のためベストを尽くしていますが,そのほとんどが世界で一番諸経費の高い日本で活動をしているため, ドル安には悩まされているようです。日本の海外旅行市場は,1964年のスタート以来,100倍近く膨脹した一方で,旅行会社や航空会社は生き残りを賭けた闘いを強いられており,旅行商品そのものも急激に市場価値を失いつつあります。海外観光渡航自由化以降のこの30年間を振り返ってみた時, 日本での観光需要開発はほとんど一巡してしまったのではないかと思わざるを得ません。市場は成熟し,今まで長い間培かってきた伝統的な戦略手法やテクニックではもはや,かつてのような実績を上げることができなくなってきています。それは新時代の到来を告げるものであり,全く新しい客層ヘアプローチするための手法を考え出さなければなりません。今後30年間の日本の海外旅行を思う時,個人的には恐らく参加するのが実佳かしいとしても, 自由化から31年目の今年が業界全体にとって重要な移行期間として長く記憶されれば, と願っています。それは,観光を通じ日本の人口の残り90%の人々を世界発見の旅に誘致すべく業界の力を刷新し始めた年として,記録されることになるでしょう。これから先の30年間に,成功と繁栄と幸多かれと祈りたいものです。23