ブックタイトル30_1964-1994

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概要

30_1964-1994

″:ら″新たな手法が求められるこれからの3口年間日本で海外観光渡航が自由化される1年前の1963年4月,東京・丸ノ内の中心に広くてモダンなオフィスがォープンしました。これが日本で初めての外国政府観光局による常設オフィスとなったのですが,実はそれが米国商務省観光局(当時はUSTSと称していましたが,現在は組織改革されUSTTAとなっています)でした。この新しいオフィスの責任者に就任したのは元米国陸軍軍曹(マーチン・プレイ氏)で,同氏は当時,第二次大戦後の戦争犯罪を裁くため,巣鴨プリズン(現在はサンシャイン・シティ。コンプレックスとなっている)に収監されていた収容者から日本語を学んだそうです。同氏を手助けしていたのが2人の女性で, 1人はスイス在住経験を持つ女性(井上長与寿美子)と,短期間でしたがパンナム勤務経験のある女性(サンドラ・蒲生)でした。まだ,ほとんどの日本人にとって海外旅行は夢のまた夢でした。当時,サラリーマンの初任給が約2万円であったのに対し,米国西海岸までの往復航空運賃が1000USドル(36万円)もしていました。このため,大学教授とか政府高官といったとても限られた人々しか海外に出掛けることが許されませんでした。しかも,そうした富裕な人々でさえ外貨として海外に持ち出せたのは旅費に当てるための300USドルのみで,そんな状況でしたから,米国への観光旅行について話し合ってみたいという旅行会社はほとんどありませんでした。日本で業務を開始した初年度に当オフィスに寄せられた質問といえば,「米国ヘの査証はどうやったら取得できるのですか?」とか「ドルを売ってくれませんか?」といった類のもので,昼食までに2時間のコーヒーブレイクを取って,昼食後はそのままイブニング・カクテルの時間になってしまったことも少なくありませんでした。そうして椅子に座って何かが来るのをただ待っているだけでは,何も起きないと感じ,今度は攻めに転じました。まず着手したのが,USTSとはいったい何なのか,何ができるのかを説明するために一本の映画(当時はビデ蒲生泰子氏米国商務省観光局(USTTA)アジア・大平洋地区支局長オなんて便利なものはありませんでしたから)を制作することでした。映画のタイトルは文字通り「Thisis USTS」というもので,まずUSTSの職員4人(この時からフリッツ。シュミッツ氏が加わりました)によるオールスター・キャストが登場し,次いで当時,テレビ番組を手掛け始めた兼高かおるさんやラジオ/テレビで有名人だったパーソナリティーの小島正男さんといった日本で良く知られた人物にご登場を願うといった具合のものでした。この映画が完成してから1年間ほどは,旅行会社の社員に,街角で,そして各種イベントで何度も何度も放映いたしました。その結果は目に見えて現れ, 日本人は米国を旅行先として見るようになったことに随分と勇気づけられたものです。実際,1965年の訪米日本人が4万4385人でしたが,66年には15.6%増の5万1325人になりました。1965年はまた,初めて政府観光機関がスポンサーとなったテレビ旅行番組が全国ネットで放映された年でもあるのです。ABCテレビが制作した30分番組「America theBeautiful」が,毎週日曜日の朝10時から日本テレビ(NTV)で半年間,シリーズで放映されたのです。これは私どもにとり,大変貴重な体験となりました。その後,米国が独自に番組スポンサーになることはありませんでしたが,NTVのみならずNHKを合めたすべてのテレビ局に対し,視聴率の高いゴールデンタイムにぶつける特別番組の制作や,放映に必要な協調態勢を整えることができるようになりました。そうしたなかで,特筆に値すると自負するのは,数多く制作された番組の中でも画期的と言われた「NTV大陸横断アメリカ・ウルトラ・クイズ」シリーズの大成功でした。同番組は1977年に1回限りの番組として放映されたのですが,その後1990年までの14年間にわたり継続され,同局が制作した番組の中で最大のヒット番組となりました。1967年ごろになりますと,海外旅行のエキスパートとして地位を確立した旅行会社のスタッフと数多く知り合うようになり,訪米旅行者は対前年比48.5%増に当たる7万6210人へと飛躍的に伸びたのです。この時までに,22鷹M.剛』「¬ロテレビが需要開拓のための鍵であった