ブックタイトル30_1964-1994

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概要

30_1964-1994

海外ホテルに代わり宿泊を引き受けるものではなく,宿泊の予約の取次業務をなす者で,当該文書(ReservatiOn Confir・mation)は,宿泊の引受の事実を証するために作成されるものではなく,依頼のあった件について空室を確保した事実を連絡する文章であり契約書に該当しない」との回答を得る。OHEA会員および賛助会員が発行するコンファメーションは契約書にあらずとの当局の指導方針に沿い,OHEAはメンバー全員を個別に指導し助言を与えるなどし,この危機を乗り越えた。もし,この時OHEAのような組織がなければ,海外ホテルのレップは国税局との個別折衝を余儀なくされていたであろう。それは,横綱と幕下との相撲にも似て,いかにも勝ち目のない勝負をするようなもの。課税対象にでもなっていれば,必ずや旅行費用にも何らかの影響を与えていたであろうことは容易に想像がつく。バブルによる不動産価値の乱気流日系企業による海外ホテル進出も, 日本航空開発の設立以降,活発化し,1975年には東急ホテル・インターナショナルがセールス・マーケティング部門を独立させ「パン・パシフィック・ホテルズ」を設立, また全日空ホテル・グループとJTBグループなどが建設した「沖縄ハーバービューホテル」が開業(全日空はその後,85年に就航都市へのホテル進出を図るべく全日空エンタプライズを設立),77年にはホテル・ニューオータニがホノルルのカイマナ・ビーチ・ホテルの経営を受託,ホテル・オークラがニューヨー▲予約網の構築に,ホテル予約専業者の力は不可欠。そのひとつ,ユーテル1961年,米ネブラスカ州オハイオ市に新予約センターを開設したク事務所を開設,初めての名鉄資本による海外ホテル「サイパン・グランド・ホテル」が開業,81年に日本交通公社がサイパンのビーチ・インターコンチネンタル・インの経営権を取得するなど,航空会社,ホテル業者,旅行業者の3社が,それぞれ海外でのホテル経営に積極姿勢を見せた。これに対し,英国のホテルチェーン「トラストハウゼズ・フォルテ」(現在のフォルテ・ホテルズ)が72年に東京事務所をオープン,翌73年には世界第2位のホテルチェーン「ラマダ。インズ」が日本進出の足掛かりとして「蝶理」との合弁会社「蝶理ラマダ」を設立,80年にはハイアット・ホテルズと小田急が提携して「小田急センチュリー・ハイアット」(762室)を東京に開業,87年, 日本で初めての地中海クラブ「クラブ。メッド・サホロ」がオープンするなど,海外からの日本市場進出も相次いだ。こうした日本進出を果たした海外のホテルチェーンにとって, 日本は2つの意味で重要市場であった。第1は, もちろん海外に出かける日本人旅行者の自社ホテルヘの誘致。獲得である。そして第2は巨額の資金を持つ日本企業からの投資を促すためである。日本は資金調達のうえでも,世界ナンバー。ワンの市場となっていたのである。特に88年以降,“強い円"を背景に日本企業が海外投資を強めるなか,業界をアッと言わせたのが西武セゾン・グループによる「インターコンチネンタル・ホテインターナショナルは▲ハワイと並び日本からの投資が多いゴールドコースト(オーストラリア)226|‡ ::::11::||:11‐.目困難`饉写一―  鬱コL は蝿月■