ブックタイトル30_1964-1994

ページ
222/276

このページは 30_1964-1994 の電子ブックに掲載されている222ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play

概要

30_1964-1994

旅イテ業界1994■■■■■■■■■■口■■■■■■■■■■■口■■■■■■■■■■■■■■■■■■口■■■■■■■■■■■■口■■■■■■■口■■■■■■■■■■■■■■■口■■■口■■日■■■■■■■■■■■■口■◆ ◆安定市場とするためには底辺の拡大が必要外国から帰った人たちを「洋行帰り」と呼んだ時代がある。船旅全盛期のことである。文字通り太平洋,インド洋等の航海から帰った人々を意味する。島国。日本と外国とを結ぶ唯―の交通手段は船であったからだ。その座はやがて旅客機に奪われ,船旅は歴史の底に沈んだかに見えた。が,「クルーズ元年」と呼ばれた1989年を転機に再び船旅(クルーズ)が脚光を浴び始めた。(国民総生産)1万ドル以上の社会と言われている。当時の日本のGNPは,そのレベルにはるかに及ばなかった。日本が再び脚光を浴び始めたのは,東京オリンピックが開催された1964年。アジアで初めて開催されるオリンピックだったこともあって, 日本の復興ぶりは世界の注目を浴びた。このオリンピック見学を兼ねた観光客が客船でドッと押し寄せた。翌65年にはノルウェーの豪華客船「バーゲンスフィヨルド号」が,さらに66年には当時最大級と言われた「キャンベラ号」がそれぞれ横浜に寄港。世界の豪華客船が次々と日本に寄港し始めたことから,豪華客船に乗って外国に出掛ける日本人も現れた。71年5月には,英国キュナード社が誇る豪華客船「クィーン・エリザベス2世号」が就航している。この間,特に日本市場に注目していたのがAPLで,「プレジデント・ルーズベルト」,「プレジデント・クリープランド」といった客船を横浜に寄港させ, また横浜から東南アジアヘのクルーズも開始した。これらは,いずれも外国船籍の客船で,日本船籍としては1965年に大阪商船三井クルーズ人気はGNPl万ドルのお楽しみ海外観光渡航自由化前の1963年頃は,まだ海外旅行と言えば船旅が主流。アメリカン・プレジデント・ラインズ(APL)が横浜/香港間,横浜/ホノルル間を航行し,「マリンタイムス」(フランス郵船)が横浜/トリノ間に留学生を乗せて運航していた時代である。客船に乗っていたのは日本人ではなく,大半は「強いドル」を持っていたアメリカ人で,横浜・神戸などに寄港しては, 日光。京都の観光を楽しんだ。時折, 日本から乗船するお客といえば東南アジアなどで休暇を過ごそうとする駐日アメリカ人家族といった程度。日本人客はといえば,円払いができた貨客船をもっぱら利用していた。10人ほどのお客を乗せ, 1カ月もかけて荷物と一緒にヨーロッパヘ向かうというのが海外旅行の一般的パターンであった。そのアメリカ人たちの間にアジア。ブームが去って,やがて大型客船も日本に寄港しなくなった。船旅が楽しめるようになるためには所得水準もそれなりのレベルでなければならない。それはGNP船舶の「ぶらじる丸」が戦後初めて,わが国の客船として大平洋横断航路に就航している。が,同船は移民船で,乗船客はとてもクルーズ気分どころではなかった。ようやく船旅が再び“旅の楽しみ"として浮上してきたのは商船三井客船の「さくら丸」が1971年に実施した「グアム洋上カレッジ」であった。それでもまだまだ,クルーズで集客するには確固たる理由づけが必要であった。71年には船会社と代理店が船旅の振興と販売促進を目的とした「日本船旅の会」(現在の日本船旅業協会=JASTA)が設立され,これを転機に翌72年には商船三井の「にっぽん丸」(旧「あるぜんちな丸」)がマニラ,香港へ処女航海。同船は翌73年に戦後日本初の世界一周客船として横浜を出港。同じ年,「新さくら丸」も70日間の世界一周クルーズに就航するなど,クルーズ。ブームを起こそうという動きが活発になった。その半面,実際の集客となると,総理府が「にっぽん丸」を利用して行った「青年の船」がダントツの実績を上げるなど, とてもクルーズの大衆化には,ほど遠い実情であった。新規事業の展開には熱血漢の力が必要だそうしたなか,一石を投じたのが世界唯一の観光砕氷船「リンドブラッド・エクスプローラー号」の横浜寄港である(1976220クルーズ