ブックタイトル30_1964-1994

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概要

30_1964-1994

、ヽ     ・ヽヽ ヽ 一焼ど )シ試ノ濃喘2Jね、 ■私の机の引き出しには7冊のパスポートが入っている。うち6冊はもう期限が切れて使えなくなったもの。いや,正確にいえばそのうちの1冊にはアメリアカのIビザ(ジャーナリストのビザ)が押されていて, 5年間有効のそのビザはまだ切れていないから,海外に出張する時にはそのパスポートも持っていく。 7冊のパスポートは,いわば私の人生の記録なのだ。最も古いパスポートは昭和37年(1962年)12月24日に取得したものだ。発行年月日のところにそう書いてある。パスポート番号は第482455号。数字の前にアルフアベツトの文字はない。ということは,戦後の日本人で公用旅券をのぞいて48万2455番目のパスポートを手に入れた人間が私だったということになる。当時はまだ, 日本人の海外渡航が自由ではなかったからそんなものだったのだろう。ちなみに私がパスポートを申請したのはアメリカの大学院から学費・生活費・渡航費用のすべてを奨学金で貰うという試験に受かったからだ。渡航に際して私が持ち出した外貨は200ドル。これもパスポートに記入されている。私について“通路故障なく旅行させ且つ必要な保護扶助を与える"よう“その筋の諸官に要請''してくれたそのときの外務大臣は大平正芳氏である。のちに総理大臣になったこの政治家とは私が政治記者をしていた時代に知己を得た。いつだったか冗談に“大臣が私の故障ない旅行と必要な保護扶助をその筋の諸官に要請してくださったぉかげで,こぅしてぉっきあいいただけることができました''と言ったことがある。アメリカで勉強する機会に恵まれなかったら,ジャーナリズムの世界に進めなかったかもしれないと思うと,その冗談も半分は本気だGI■ヨ■)平野次郎NHK解説委員ったのだ。ちなみにそのパスポートは7冊のパスポートのうち唯一の表紙が革製のものである。それから10年たって,私は2冊めのパスポートを手にした。昭和47年(1972年)のことである。マスコミの世界の“徒弟制度"は厳しいもので,いくら留学帰りであっても,外国語使いであっても,当時はおいそれとは外国に出してはくれなかったのだ。その10年間は,私にとっては“雌伏"の時代だった。外国に行くチャンスがない私を尻目に, 日本は経済繁栄と国際化の時代をまっしぐらに進み始めていた。私が取材を担当した横浜港には輸出入の商品と観光客があふれていた。土地を売ったカネを胴巻きにねじこんだ都市近郊の地主たちが,海外ツアーに出掛け始めるのももうすぐのことであつた。私にとっての2冊めのパスポートは,仕事でアメリカとョーロッパ,そしてソ連(当時)に出張するためのものであった。旅券番号は6桁になっており,その6桁の数字の前にMEという記号が付ついている。このパスポートとそれから5年たって更新した3冊めのパスポートには,青表紙で旅券番号の前にMEの記号がついているという共通点がある。しかし, 5年後の旅券番号は数字が7桁に増ぇていた。パスポートを所持する日本人の数が,百万の単位に増えたということだ。1978年は,日本の対米貿易黒字額が史上初めて100億ドルの大台にのった年である。対米貿易黒字は日本の国際化が形を変えた姿であり,対米輸出で力をつけた日本のビジネスマンと日本の一般大衆がそれを機に外へ外へと出ていくようになった。海外での子供の教育が親たちにとって頭の痛い問題になり,不純な動機を持った男たちがアジアの歓楽街を訪れるようになり,卒業前に外国旅フ冊のパスポート20繭申,藤嬢1麺「