ブックタイトル30_1964-1994

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概要

30_1964-1994

い▲CRSの登場は,UFTAAが主張する国際線の航空券発券手数料10%論にも一石を投じた▲JTBのコンピューターシステム「トリップスIII」の端末器の競争時代へと突入する。情報量の差が勝負の分かれ日と思われた。このため,網羅する情報ネットワークの拡大をいかに進めるかがCRSの課題でもあった。ところが,CRSを利用する流通サイドの関心は情報量によるのではなく, もっと実務的なBSP発券にあった。航空座席の販売ツールとして航空会社の手で開発されたCRSは,いかに自社のシートを埋めるかに最大の眼目が置かれていた。が,予約を入れただけでは代理店の利益には結び付かない。航空券を発券して,初めて「代理店手数料」が支払われ,旅行代理店の収入になるのである。単品の販売が基本的収入源となっている旅行業界だけに,航空券や鉄道の乗車券の発券は企業の損益に直接響く。それだけ真剣にならざるを得ない。CRSは,情報量拡大から機能拡充競争の時代に入る。その間に,CRSは航空券の自動発券を業界にもたらしてくれた。自動発券機の登場によって,今まで繁雑であった手作業が大幅に省力化できただけでなく,手書きゆえの事故もなくなった。悪筆であっても簡単に, しかも誰にでも正確に読める航空券が発券できるようになったし,ポイド航空券の枚数も減った。そのうえ,発券時の顧客データはそのままコンピューターに蓄積される。営業マンの目標管理も1987~ 88年はCRSにとって一大転機であった。日本国内最大のコンピューター予約システム「リザーナ」を持つ全日空が,前年に国際線定期路線に進出し,この年にその「リザーナ」がアメリカン金融流通をも飲み込んだ情報流通機構ジャンボ機が日本に就航した1970年,CRSにとって重要な会議が東京で開催されている。IATA(国際航空運送協会)とATC(米国航空運送協会)が,大量輸送時代の到来を目前に控え,航空会社と代理店業務のシステム開発のためのコンピューターと航空券の検討会議を開催した。京都でもIATA広報委員会が「変貌する航空会社」と「変革するメディア」をテーマにシンポジウムを開催。来たるべきコンピューター時代への布石であった。実際,翌71年1月には日本航空が,東京地区でJALCOM IIを国際線予約システムとして稼働開始。同じ1月にIATAと日本勧業銀行(現在の第一勧業銀行)がBSP(銀行集中決済方式)取扱協定に調印,世界に先駆け日本でIATA‐ BSPの運用が開始されている。この航空運賃精算の一本化を図ったBSP実施は,日本でのCRS普及に決定的な影響を及ぼすことになる。この間, 日本に乗り入れている外国の航空会社も手をこまねいていたわけではない。とりわけ,航空界のリーダーを自他ともに認めるパンアメリカン航空が,独自に開発した予約システム「パナマック」を日本にも導入。日本航空をはじめとするほとんどの航空会社がKDD(国際電信電話)の国際通信回線を使用していたのに対して,パンナムは専用回線を持つなど,航空会社によるコンピューター開発の面でも一歩抜きんでていた。コンピューターによるヘゲモニー戦略ここまでがCRSの離陸準備段階とすれば,1979~ 86年はCRSの創世期である。1979年,日本航空はJALCOMIIをさらにアップグレードさせた「JALCOM III」を新総合コンピューターシステムとして導入。ニューメディアとして注目された「キャプテン・システム」の実験もこの年に開始された。80年には大手旅行業者3社(日本交通公社, 日本旅行,近畿日本ツーリスト)のコンピューターと国鉄の「マルス」が結合。83年,ユナイテッド航空のシアトル(ポートランド)/東京路線就航に続いて,同社は86年にパンナムの大平洋路線を全面的に継承し, 日本を含めたアジア全地域への国際線展開に本腰を入れ始める。それは同社が開発したCRS「アポロ」の全面的なアジア進出をも意味した。旅行会社側もこうした動きに敏感に反応,1986年に近畿日本ツーリストが「アポロ」のリース契約を結べば, 日本航空は国際線の航空業界VANと言われる「マルチ。ジャパン」の稼働を開始。CRS間217|一I ●一¨―・■曜ヽ/鷺