ブックタイトル30_1964-1994

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概要

30_1964-1994

旅行業界1994市場変化に対応できる企業体質の確立が不可避◆ ◆今日見られる海外旅行の隆盛は,1970年のジャンボ機登場に負うところが大きい。海外旅行のスピード化と大量送客を一気に実現した。と同時に,ジャンボ機は航空会社のみならず旅行産業全体にとって両刀の剣でもあつた。大量送客によるマスツーリズムの実現は,航空会社の生き残りを贈けた運賃競争の幕開けでもあった。オリエント航空(現在のノースウエスト航空)が相次いで大平洋線にジャンボ機を就航させた1970年は, 日本の海外旅行産業にとって大転換期となった。ジャンボ機の商業飛行開始は日本のみならず,世界全域に大きなインパクトを与えた。大量輸送時代の到来である。とりわけ,四方を海に囲まれた日本ではジェット機時代の幕開けに続くジャンポ機の登場で,市場は一変した。前年の69年に導入された座席一括購入制度「バルクIT運賃」と相まって, 日本は海外旅行大衆化へ堰を切ったように雪崩れ込むことになった。以後,旅行会社が航空会社から航空座席を一括して買い取る方式のGIT運賃が,需要喚起への重要な役割を果たすことになった。同時に,それは低廉化への道を開くことにもなった。ジャンボ機はそもそも,民間旅客需要予測を基に開発された航空機ではない。拡大策を採る米国の世界戦略が求めていた大量輸送可能な軍用機として,ロッキード社の巨大輸送機ギャラクシーとポーイング社のジャンポ機がそれぞれ開発された。結局,米軍は対抗馬ギャラクシー両刃の剣であつたジャンボ機の登場日本に初めてジェット機が乗り入れたのは,海外観光渡航が自由化される5年前の1959年。その10年後の1970年にパンアメリカン航空のボーイングB747(ジャンポ機)が羽田空港に降り立った。この2つの出来事が,その後の日本の海外旅行業界に決定的な影響を与えた。海外観光渡航自由化の翌年1965年に発表された海外旅行商品と言えば, 日本航空のジャルパック,パンアメリカン航空のパンナム・ホリデー,アリタリア航空のスペシャル・インタレストツアーなど。翌66年にはルフトハンザ・ドイツ航空がオイローパ・ツアーを,次いで英国海外航空(BOAC=現在の英国航空)がローズ。ツアー, さらにエールフランスがセシボン・ツアーをといった具合に,航空会社主導によるパッケージ商品が矢継ぎ早に作られた。需要開拓に必要な宣伝力・商品開発力など, どれを取っても圧倒的な力は航空会社の手中にあった。何しろl USドルが360円の時代である。パンナム,日本航空,ノースウエスト・を採用。ボーイング社は,苦肉の策としてジャンポ機の民間機転用を決めた。ジェット旅客機1機の最大収容能力が200席程度であった時代に,突然450席の巨大機が出現したのである。旅行業界はこの時に,ボタンの掛け違いをも抱え込むことになった。以後,旅行業界はこの掛け違い解消のため,辛酸を紙めされることにもなる。ジャンボ機就航とパッケージ量産態勢の確立によって,海外旅行市場は比類なき成長を遂げる。73年には海外渡航者総数が228万8966人に達し,前年比64%増という驚異的伸びを記録した。同じ73年に起きた第1次オイルショックによって,航空業界は思わぬ苦境に立たされることになる。翌74年の旅客需要が前年比2%の微増にとどまったのである。需要の伸びを見込んで供給座席を増やした結果,供給過剰に陥り,航空会社間で航空運賃のダンピングが発生。IATA(国際航空運送協会)協定運賃遵守の立場から,ダンピング解決のため日本航空と外国航空会社が1975年に「国際航空運送秩序確立委員会」を設立。航空会社は自ら生み出したダンピング問題解決のため,やがて相互監視やカウンターヘの立ち入り検査をも実施。航空会社の航空会社2r2デレグで一変した航空界の勢力図