ブックタイトル30_1964-1994

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概要

30_1964-1994

新しい大航海時代が到来しつつある。それは,海外旅行でもバスの中にじっとして動かない,静止と安定のグループ旅行を求める在来型日本人(「旧日本人」)に対し,絶えず変化する動きに,個人的な驚きと楽しさを見出そうとする,「新日本人」が出現したことによっている。具体的に言えば,空港内の動く歩道に,お土産などをたくさん抱えて, じっと立ちつくす,これまでの動かぬ日本人に対し,動く歩道を身軽にどんどんと歩いていく,いわば欧米型の新しいタイプの日本人のことである。それは野球を好む在来型日本人と,Jリーグのサポーターとなる新日本人との違いと言ってもいい。30歳が,分かれ目のようである。在来型日本人は,野球,相撲といった,動かないスポーツを好む。この2つは静止状態が大半であり,時折急展開の,激しい短時間の動きを見せる。いわば,長い辛抱の耕作の後にやって来る,収穫の短い喜びと興奮の,秋祭りを楽しむタイプである。つまりは農耕型ないし深耕型である。だからこそ,高校野球の球児たちは甲子園の土を持ち帰り,相撲の弓取り式では土俵で耕す所作をする。サッカー型の興奮は,見られない。この点サッカーは,ハンティング型のスポーツである。状況は刻々と変わり,瞬時も休む時はない。広い空間を所狭じと走り廻り,いま攻めていても刻々と立場は変わり,次の瞬間には攻められる。野球のように,攻めるほうは攻めるばかり,守るほうは守るばかりという安定感はない。Jリーグのサポーターも,時々刻々型であり,競技場であれほど熱中し,喚声を上げていたにもかかわらず,競(困頭日D木本寸尚二郎東京大学名誉教授技場の外に一歩出れば,後はしれっとして,三々五々黙々と散っていく。野球ファンのように,試合が終ってからも,あの時の三振は痛かったとか, ヒットが利いたとか,いつまでも尾を引いて論評し合う態度とは, まことに対照的である。今日のように先行き不透明感が強くなると,人はじっとしていられなくなり,必らず動き出す。ただし,動くといっても特定の理念とか信念の下に動くわけではない。先行き不透明で,そのような理念や信念が持てず,見出せないからこそ,動く。何かチャンスがあるのではないかという期待感,ほかから生き方とか物の考え方とかを学びとりたいという,漠然とした向上心とともに,動く。小は家の周りの散歩,大は海外旅行がそれである。散歩は,明治以前には存在しなかったと言われる。道は買物とか通学,会社勤めなど目的をもって歩くべきものであり,道草を食ってはいけないと,ついこの間まで親とか教師は子供たちを戒めていた。散歩は,道草の国まりである。特別の目的は持たないが,歩きながら家の周りの空間を楽しみ,かつ,何となく考えている。あの家はされいだな, 自分もああいう家を建てたいなとか,このゴミは汚いな,とか。空間感覚が,家の周りから世界へと拡大しつつある。明日を確信しつつ生きるという,明治以来の「時間の観念」が後退したぶん,空間感覚は働き出した。普段着で生きる日常性が,家の中から外へ,そして世界へと広がりつつある。海外へのハネムーンも,かつての自い帽子,自いスーツの花嫁姿は消え,ジーパンの普段着のままである。「新日本人」は世界中どこでも普段着であるが,同時新本人の海外旅行3つのポイントrr′