ブックタイトル30_1964-1994

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概要

30_1964-1994

◆ 旅イテ業界1994 ◆旅行業法3度の見直しと新浮上したコンベンション法案の行方海外旅行が1200万人規模に拡大した現在,旅行業界を監督・指導する行政側の立場も多様化の局面を迎えた。旅行行政の指針でもある旅行業法の見直しも必要となる。加えて,ツーウェイ・ツーリズムヘの対応として外客誘致を目的としたコンベンション法案が新たに浮上してきた。人が参加した。日本側も国際観光振興を強くアピールしたが,翌68年,「行政機構改革化法案」に基づく1省1局のあおりを受け,運輸省観光局は大臣官房観光部に縮小されるという皮肉な結果となった。さらに,中曽根運輸大臣の閣議での,「不要不急の海外旅行自粛」発言,旅券発給に対する課税案などが噴出し,業界内に波紋を広げた。結局,これらの実施は見送りになったものの,海外旅行業界には風当たりの強い年であった。この中曽根発言は,68年初頭にジョンソン米大統領が発表したドル防衛を目的とした米国人旅行者の海外旅行制限と軌を一にするものだが,結果的に旅行好きのアメリカ人の猛反発を買い雲散霧消となった。一方, 日本の場合も円防衛という建前があったにせよ,「バーのマダムごときが行く海外旅行」という差別的発言が新聞ダネになるなど受難の年であったが,海外旅行マーケットに変化は現れなかった。どの国も,財政的破綻に陥った際に取る常套手段が観光をスケープゴートにする方法。観光旅行が無駄使い視され矛先が観光産業に向けられる。日本でも外貨外貨獲得から海外旅行自由化ヘ1945年,大平洋戦争終結以降の観光行政は,窮乏する日本を復興するに必要な外貨獲得を目的とし,外国人旅客誘致を目指した「外人旅行」に対する指導から開始された。1964年の海外観光渡航自由化の年には,新たな対応を図るため,運輸省観光局(当時)が「旅行あっ旋業基本政策」を制定した。この年,初の運輸自書も発刊された。また,外客対策として,この年に開催された東京オリンピック見物に訪日した外国人旅行客に対する料理飲食消費税の非課税措置も実施された。同年4月には「日本観光協会法」の改正で特殊法人。国際観光振興会(JNTO)が発足した。運輸面では5月に日米航空交渉が開始され観光・運輸とも内外両面で新たな局面が展開した多忙な幕開けであった。1960年代で,対外的に最も大きなイベントだったのが,67年10月に東京で開催された第20回官設観光機関国際同盟(IUOTO)総会の開催で,70カ国,316獲得のための外客誘致から反転して海外旅行自粛論が台頭したことは,逆に当時の海外旅行の活況ぶりを裏付けている。ちなみに,同年の日本人海外渡航者総数は34万3542人(前年比28.4%増)であるのに対し,外国人観光客は21万194人と,すでに人数面では出超となっている。外客誘致機関がJNTOであるのに対して,海外送客の連合体が日本旅行業協会(JATA)である。その発祥は1965年。それ以前は,IATA代理店で組織された「IATA旅客代理店会」と,旅行斡旋業者6社で組織した「国際旅行業者協会」の2つの流れがあった。後者が63年に社団法人認可を受けたのを機に両者の一本化が図られ,65年に「国際旅行業者協会」が誕生。その後,1975年に「日本旅行業協会」(JATA)と改称し現在に至っている。インとアウトのバランス調整1994年現在,日本人の海外旅行者は1200万人規模に拡大されたが,外国人旅行者は400万人前後である。そのアウトバウンドとインバウンドとの隔たりはあまりに大き過ぎる。このため,運輸省も87年に打ち出した「テン・ミリオン計画」に続く新たな指針として, 日本への旅行需要拡大を盛り込んだ「ツーウェイ・ツーリズム」を提示し,インバウンド需要の増進を促している。192行政