ブックタイトル30_1964-1994

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30_1964-1994

【旅は世につれ,世は旅につれ】食事にはまず水を用意する合わせて臨時WCを設営したり,途中の廃屋や岩陰を探して小休止する。添乗員は走るバスの中でも,常に適地発見に目をこらす。▼ワインの試飲を行うツアーコンダクター協会のメンバー化初期のような無我夢中時代とは変わってくる。業務知識の向上とコンダクター自身の個性化が進む。そしてまた,旅行者の添乗員に対する期待も90点に完成度を要求する。それだけに好評を呼ぶツアーコンダクターにはお客からのリクエストもくるが,逆だと旅行会社の発注が止まる。コンダクターの責任限度が拡がったわけである。今,1990年代。添乗員たちの直面する間題点は,治安の悪化による犯罪の増加から,いかに旅行者を安全にエスコートするかという課題がある。さらに,最近の傾向としては,旅行に必要な多額の団費を持つツアーコンダクターを狙った犯罪も発生している。ローマでバイクによるひったくり事故で死亡した女性コンダクターも,その被害者の一人だ。ベテランの女性コンダクターは,こうした状況に対処するため,「仕事以外ではお客様のような顔をしている」と自衛策を語る。かつての腕章,アタツシュケース・スタイルは消えた。また,仕事上では職業病の心配もある。機内での長時間にわたる着席,旅行先のハードな歩行が重なリー時的に下半身麻酔が起きた実例もある。こうした状態をさけるため常に自己流の体操で鍛えたりする。今,ヤングに人気のツアーコンダクターという仕事は,浮わついた気分で果たせる仕事ではない。1964年,海外観光渡航自由化時代に,地図とコンサイスを手にして旅行者をお連れした添乗員時代から,今, 自己の個性と決断によって新たに旅行をコンダクトする時代に進みつつある。99添乗員の苦労の種の一つは食事。日本人の一般的な習慣として,食事には水が付きもの。だ`が,,毎タトではワインとと食事:が`普通だから食卓に水があるとは限らない。このため, レストランに入るや否や,添乗員はエビアン(蒸留水)を大量にオーダーするからギャルソン(給仕人)は目を回す。最近ではレストランも日本人客の応対に慣れてきたので,最初から飲料水をテーブルにセットしてあることが多くなった。海外へ行っても絶対に「和食主義」, というお客も多い。特に地方からのお客にはこの傾向が強かった。最近でこそ世界中に日本食レストランは増えたが1960年代にはまれ。中国料理で済ます場合もあったが,「どうしても米のメシ」というお客のために,電気釜持参で行った添乗員もいる。白銀輝くスイスの山岳観光に,電気釜で炊いた米のメシを持ち,特大のヤカンに入れたお茶を下い黍乗員は苦闘する。アメリカの場合は日系米人が多いため日本人向けの食堂を利用できるし,カリフォルニア米が豊富なので慟洲はりは楽だったという。その後,真空パックの日の九弁当やインスタント味嗜汁などの普及で大分苦労は軽減されたが,持参の梅千し,海苔,納豆などの日本食品は,外国の税関でしばしばもめる種ともなる。食べれば出るのが自然の摂理。これがまた苦労の種。公衆便所を一つ使うにもMeL Womenの表示や, トランプのキング, クイーンなら分かりやすいがダーメン(女′1生用),ヘイレン(男′1生用)となると,新米のエスコートでは判断がつかない。はやるお客を押さえて,外人が入ってゆくのを確認してから, どちら力寸旨示するということもあった。トイレットペーパーも要注意だ。区炒|ヽ|や旧ソ連などは硬くて質が悪い。メモが書けたほどである。そのため,出発前の説明会には,必ずチリ紙の携帯を勧めたという。それでも,市街地はまだ良い。苦労するのは辺地の史跡旅行。広大な砂漠や平原には用を足す場所がない。こうもり傘を組み新たな添乗派遣専業会社の誕生1970年代のマスツーリズム到来とともに,海外ハネムーンが増え始めた。羽田空港には,新郎新婦力澪居模様と紋付きの親族に送られて鹿島発ち, という風景が展開する。添乗員付きの主催旅行にも辛励昏さんが増える。あるカップルが飛行機に乗ったら座席配置のおかげで嗜斤郎と新婦は通路を挟んで離ればなれ。新婦は泣きだす。添乗員は,すかさず新婦の隣の客に近ずき,「お隣の婦人が健康を害してますので」と,巧みに新郎と席を入れ替える。ここまで面倒もみなければならない。航空機の遅延や交通機関のスケジュール変更は添乗員にとって一大事である。募集の旅行条件が果たせなくなるため,時には違約をめぐり裁判問題にまで発展することもあるからだ。予定変更の事態が起きた時には,添乗員の咄嵯の判断が重要になる。あるツアーのケースでは,搭乗機が遅延したため到着時には,接続便が既に出発していた。その後1週間は便がない。ツアーコンダクターは参加者の了解を得てチャーター便を手酉己2日遅れで目的地に到着したという。こうなると, コンダクターの判断一つで旅行会社の利益も変わってくるだけに責任重大である。このように1970年代は,海外旅行者の増大に伴いツアーコンダクターの職域も専門化する。1976年には,日本で初の添乗サービスを行う専業会社として「ツーリスム・エッセンシャルズ株式会社(三橋滋子代表取締役社長)が設立され1200人の自社専属添乗員を旅行会社に派遣することになる。このため,現在は旅行会社専属の添乗員と,派遣添乗員の2種に分かれツアコン人口は総数1万人を超すものと推定されている。1980年代は,旅行熟練度の増した海外旅行者のリピートロ寺代であった。そのためッアーコンダクターの質も自由一●ヮ  ●