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概要

25_1964-1988

1987我が国の大幅な貿易黒字や日本人の働きすぎに対する批判が高まり,一方,国内では世界に貢献する日本として,また,国民生活の豊かさを増すために,何をなすべきかが問題とされていました。本計画は,これらの要請に応えるため,世界にも例を見ない海外旅行の促進策として策定されたものです。計画の作成は,関係する全ての課が参加するプロジェクトとしての位置付けのAAが日本へ乗入れ就航まで疾風怒涛の日々丼t,ドーi脳夕矢●アメリカン航空会社/日本支社長テンミリオン計画発表豪州の水準を目標に策定橋フM旨徳●大分県庁/観光振興課主事運輸省が1991年までに日本人海外旅行者数を1000万人の大台に乗せることを目指す「海外旅行倍増計画」を発表したのは昭和62年(1987年)9月。海外からは,もと,闘日本交通公社の協力を受けつつ,国際渉外官をトップに私も含めた計6名の専従チームがあたり,施策を予算に反映させるため短期間で報告書をまとめることとなりました。目標は,海外旅行者数の対人口比に着目し,我が国と同様に四方を海に囲まれたオーストラリアの水準にまで引き上げるため,1986年の海外旅行者数552万人を倍増する1000万人とし,計画期間は1991年までの5年間としました。これは,1986年までの過去5年間の伸びが年平均6.7%であったのに対し,約2倍に当たる年平均13%の伸びを必要とするもので,チームの中でも達成の可能性について大いに議論が交わされました。名称については広く案を募り,ゴー・アプロード計画等の候補の中から決定しまやらねばならない事は山のようにあった。そのすべてを,基本的には,オフライン時代の営業スタッフが中心になってやれというのだ。しかし,就航記念のレセプションまで,準備をすべて社内でやれというのには驚いた。それもンセプションではなく,「プロダクト・フェアー」だという。一体,プロダクト・フェアーとは何ぞや? 内容を知って驚いた。バンドや食事はともかく,35ミリの映画と数台のスライド,それに16ミリ。フィルムを組み合わせた,大型マルチスクリーンの一大プレゼンテーションをンセプション会場でやろうというのだ。プログラムは本社で作り,映写技師も派遣するというのだが,日本側の専門会社なしで,果たしてうまくゆくのだろうか……。案の定,ぼう大な映写器材がロサンゼした。この計画が,皆様に幅広く,好意的に受け入れられたのは,対象が海外旅行という身近なものであり,名称及び目標が簡潔でしかも明確であったことが大きな要因となったと思います。海外旅行者数が1991年を待たず,この1~ 2年のうちに計画の目標1000万人を突破する勢いで推移していることは,計画の推進に携わった者の一人として大変うれしく思うとともに,爆発的とも言うべき海外旅行ブームにはただ驚くばかりです。(当時・運輸省国際運輸・観光局政策課)テンミリオンヘ,まっしぐら(成田空港で)ルスのプロダクションから成田に着いたのはパーティーの前日。特別にお願いして,当日朝に通関を終えた。ホテル会場にセットを終えると今度は電圧が違うという。それは変圧器でなんとかなるが,さらにサイクルが違って役に立たないという。で,映画のロケなどに使う電源車なるものを,片っ端から電話しまくって,ようやく手配した。プロダクト・フェアーは大成功だった。800人もの方々にご来場いただき,一般的な就航記念パーティーとは趣向が違って面白かったと,好評だった。しかし,通関がちょっと遅れたら,電源車が都合よく見つからなかったら, と思うと今でも冷や汗が出る。当初は,乗客予測が必ずしも楽観的ではなかったダラス/フォートワース線だが,最近のロードファクターは,アメリカン航空のシステム全体の平均を越える70%近い数字を示している。私たちオフライン当時からの社員にとって,これは二重の感激である。アメリカン航空が米国運輸省から,ダラス/フォートワースと成田間の運航認可を得たのは,1986年9月19日である。オフライン時代,日本支社で営業活動に携わっていた約10名の社員にとっては,二重の感激だった。というのは,1968年にCABの選定を得ながら大統領の署名が得られず,準備を整えたオンライン化が自紙撤回された経緯があったからだ。今回は本当に夢の具現だった。しかし,のんびりと感慨に浸っている暇はない。認可から翌年5月22日の就航までの8カ月間は米国本社にとっても日本支社にとっても,まさに疾風怒涛の日々である。L95」田疵“鯵^!偽/ヽ日日. ■ m■国L _