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概要

25_1964-1988

1986・■ 1 ‐. _NH初の国際定期便人気呼んだ“デイ・フライト"橋本登0グアム珈推見】調/日本代表た記念パーティ(東京・ホテルオークラ)のことも思い出される。前夜,東京は大雪に見舞われて,パーティ列席者の出足が心配されたが,当日は午後からすっかり天気になり,会場には人が温れんばかりの大盛況であった。パーティは全日空の春日功常務の挨拶で始まったが,会場が「春日の間」であったというのは,たんなる偶然だろうか。ともかくも,こんなふうに何かにつけて全日空の東京/グアム定期路線開設にはお目出たい要素が重なり,それだけによけい印象深い出来事として思い出されるせ,初春の成田空港を離陸,グアム島ヘ のだ。と向かった。全日空の初の国際線定期便就航である。我々見送りの人々がようやく霞ヶ関や日比谷のオフィスに帰り着いた頃,ほぼ同時刻に同便はグアムに到着。自とブルーのストライプを付けたスマートな機体を,常夏の国のまばゆい日差しの中に輝かせ,陽気で人なつこい島の人達から大歓迎をうけていた。キエフに当社主催のグループが滞在しているし,これから入るのもあるが,大事にならなければいいが」という話をしていた。ところが家へ帰ってみると,テレビ等の報道は,原発事故がたいへんな出来事で,放射能の危険には付近だけでなく,欧州一帯がさらされていることを刻々伝えているではないか.′ 社員同士の電話連絡の上,夜に会社へ出勤ということになり,ゴールデンウィークでかな%3月3日といえば,グアムの「ディスカバリー・デー」に当たり,お目出たい祝日だが,私自身にとっては結婚記念日でもあるだけに, とりわけ印象深い日となった。そういえば,全日空のNHというコードは,私の名の頭文字と同じであり,たんに親しみという以上の縁さえ感じたものだ。それはさておき,当時のグアム路線というと“夜這い便"(夜立ち,朝帰り)のイメージが強かった。しかし,全日空の定期便は太陽が昇っている間に行き帰りできるデイ・フライトで,就航当初から人気を集め,グアムを訪れる日本人観光客の増加に大いに貢献したと思う。いま改めて関係者各位の努力に対し,感謝の意を表しておきたい。就航当日に先がけて2月19日に開かれそれは3年前(1986年)の3月3日,午前10時の出来事であった。全日空NHll便ロッキード・スーパートライスターが乗員,乗客あわせて302人を乗ヽレ″ぶチェルノブイリ原発事故マスコミ攻勢を断固乗り切る井田明男0日ソツーリストビューロー/代表取締役3年前(1986年)の4月29日,都心で,或るお祝いのパーティに出席していた。席上, 2, 3の社員と「ソ連キエフの近くで原子力発電所の事故があったようだ。り多数旅行中のお客様対策を開始した。マスコミ関係者は社員より早く会社ヘ取材に来はじめている。こういったとき,お客様の家族,外務省や運輸省,現地との連絡も大事だが,マスコミ関係者との応待にも気をつかわねばならない。キエフに何人いるのか?これからの予定は?どこのホテルか?旅行者の健康状態は?矢継早の質問。チェルノブイリの事故をきっかけに,いわゆる「グラスノスチ」が始まった国だけに,現地から簡単に情報が入るわけはないし,ソ連はその時点で,キエフがそれほど危険地帯だという認識をもっていなかったのだ。マスコミ関係者の一番の要請は,キエフを訪れるツアーの参加者名簿を公開することだった。だが,当社の見解は,実際に被害者は確認されていないのだから,(写真:共同通信)名簿をだせばお客様はたちまち被害者扱いとなり,ご家族にひじょうな迷惑がかかることになるので,その段階では絶対だせないというものであった。記者の中には,「他社はだしている。ださないのなら社会的に糾弾されるぞ」と脅しをかけてくる者もいた。しかし,添乗員以外は最後まで公表しなかった。いまだから,公表しないですませた, と一言で片づけられるが,先方の公表せよとの要求を拒むのに,ひじょうに苦心した記憶がいまでも生々しくよみがえる。後になって,お客様からは公表しないことで感謝されたので,あのやり方でやはり良かったと思っている。ェルノブイリ″,bdL.用F`可t嘔」・ 3壼