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概要

25_1964-1988

9 8 5公正競争規約作成やり玉に挙がった過剰景品昭和58年(1983年)4月1日付朝刊各紙は一斉に,旅行業者の景品付販売に対し公正取引委員会から排除命令が出されたことを報じた。曰く,「過剰景品まかりならぬ」「高過ぎた“おまけ"」等々。記事が出てから間髪をおかず公取委は,業界宛に景品,表示の公正競争規約の作成を要望してきたが,業界の反応は鈍く,JATAに設置された「流通秩序確立委員会」の活動も, 5月末になってやっと景表法の勉強会を開く有様。業界の本件に対する関心の低さ,勉強不足を露呈したに過ぎないことになった。遅々として進まぬ業界の規約作成への連日の昼夜兼行の突貫工事の甲斐があって開会式当日の朝7時には,私が3時間程前に目にした何十台,何百台の工事関係車両,会場内の道路という道路を覆っていた彩しい数の保護板は嘘の様に消え,あの泥だらけの会場はもののみごとに薄化粧のそれに変わっていた。博覧会が始まるちょうど1年前の昭和59年(1984年)3月から公式記録の原稿を書き終えるまでの約1年8ヵ月,私は博覧会協会に出向した。協会では博覧会々場に訪れる各国の王族や元首,大臣及び国際機関の長といった人々のお世話をする儀典室を担当した。実は斯く言うつくばExpo985もうひとつの公式記録取組みに苛立ちを見せた公取委の再三に亘る強い矢の様な督促と,業界のことは運輸行政の枠内でという運輸省の姿勢の狭間に入って,一方を立てれば一方が立たずというジレンマに陥り,一時は両官庁の間を右往左往することも度々であった。が,結局は表示に関しては業法が施行されて間もないということもあり,業法で処理し,景品に関しては規約でいこうということが決定された。同年9月のことであった。サービス業としては我国初の規約ということもあつて,旅行業界の特有な事情をも加味しつつ,先例のない規約案作成は,いざ始めてみると大変な時間と労力私も,この儀典室で毎日の睡眠時間が4~ 5時間という,地獄の様な突貫工事をやる羽目になったのである。協会には最大時,官民合わせて100機関から400名のスタッフが出向していたが,出向した者同士の対立も見られ,立案等がある部の段階でストップしてしまうこともしばしば見受けられた。自分の要求を通すのであれば絶対に議論で負けてはならない社会であつた。巨額の予算が投じられた国家行事が故に,協会に身を置く者の考え方には様々なものがある。が,それでも必ず各部には何人か,必死になって任務を全うしようとする人達がいた。あの博覧会はそうしたひと握りではあるが,懸命になって業務にぶつかつていつた人達によって支を要することになった(原案作成の検討会は100回近くに及んだ)。この為の疲れからか,作成メンバーの一人である平野範弘氏が途中で病死というショッキングな出来事もあったが,何とか輪郭が出来てきた。中でも,当時大はやりであつた“オープン懸賞"を上手く利用した,見せかけだけの優待旅行をどう取扱うか,が規約の目玉となった。この他“○○付ツアー"に名を借りた景品まがい商法,或いは“モニター旅行"と銘打ち大々的に集客を意図した手法をどうみるかで議論百出,激論が深夜に及ぶことも度々であった。悪戦苦闘した規約がやっと日の目を見たのは昭和60年(1985年)1月1日。思えば辛く長い道程であったが,今ではこれも懐かしい思い出となった。つくばExoO成功の陰には多くの人々の労苦が(写真:共同通信)えられていたと信じる。私にとって,この1年8ヵ月の出向期間に得たものは多く,中でも自紙のキャンバスからスタートし,他の室員とともに一丸となって線を入れ,絵を完成させたことは大きな自信となり,私のバネになっている。唯,現在任地であるロサンゼルスに生活し,「人生は楽しむ為にあり,我々はその楽しみの為に働く」を信条としているアメリカ人を見て時々思うのは,仮りに特殊な国家行事であったとはいえ,何故にあれ程までにして働かなければならなかったのかということである。過労が原因で博覧会途中にして他界した友人達のことを思うと,胸が痛んでならないのである。佐々木二人●JTB/法務室長塚.本恭丈●国際観光振興会/ロス・アンジェルス観旭伝事務所次長“■II」LF■』薔軒■り“′,‐ ‐ぃ、_.1暉