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概要

25_1964-1988

1981年金旅行が大ヒット自分でもビックリの凄い反響大東敏治●JTB/市場開発室主査昭和55年(1980年)9月18日,私は休暇をとって大学の同窓生達と伊豆の川奈ホテルに泊っていた。朝食後,ロビーで広げた日経新聞に「年金ツアー」の記事が翌朝,会社に出てみて驚いた。「大東君,きのう1日中,全国あちこちの支店やお客様から問合わせが殺到して,対応にてんてこ舞いだったよ」と上司が,幾分日焼けした私の顔をうらめしそうに見ながら,開ロー番言ったものだ。「ヘェー,たった数行の記事でも,さすが新聞の影響は凄いですね」と正直ビックリしていると,「なんだ,お前知っていたのか」と果れ顔をされた。その日は,前日のツケが何倍もの利子付きで回ってきたほど,猛烈に忙しかった。記事を読んだビジネスマンが「両親をぜひ旅行に行かせたい」,足の不自由なお年寄が「死ぬまでに一度でいいから海係のぎこちなさが解消するのにそれほどの時間はかからなかった。その年,春から夏にかけ,主として観客誘致資料作りとそれに伴う諸準備に明け暮れ,秋を境に全国津々浦々へ出向いての説明会が約150回。その為の資料準備,会場手配等々,夜も昼もフル稼動であった。又,説明相手によっては親元(JTB)の名を出さないよう気をつけたり,復帰すればライバルになるであろう各社の販売活動の手助けをしたり,完全に協会職員になりされない複雑な心境であった。さらに開幕直前の2月をピークに現地下見団体が約450回程度あったと記憶している。来る日も来る日もジャンパーに身をつつみ,寒い会場内を案内,説明。外旅行をしてみたい」等々。こんな企画が高齢者に受け入れられるだろうかとヒヤヒヤしながら,或る退職者組織に3000通のDMをし,やっと20名の申し込みがあリホッとした矢先のことであった。それがその後,各紙誌に取り上げられ,テレビやラジオでも報道されるに至って,翌81年には「年金旅行プラン」として広く知れわたるようになり,アメリカ・ヨーロッパ方面に数千名の参加者を得ることになろうとは……。その中で今でも忘れがたい想い出一それは,苦労して成立した初回のハワイ旅行で,朝早くツアー参加者が皆,裸足になって海岸で健康体操をしたこと,全員の顔が,昇り始めた朝日に照らされて,とても生き生きと輝いていたことである。祭りの準備は万端に整つて……夜は翌日の資料準備と,私にとっては,博覧会開催中よりもハードな,また充実した日々であった。昭和56年(1981年)3月20日開幕。お客様は入場してくれるのだろうか? しかし,オープン以来,順調に入場者数は推移し,最終的には1600万人をオーバーして閉幕となった。会期中,売り物のポートライナーの事故,パビリオンにおける長蛇の列,その他いろいろな出来事があったが,それぞれ今になれば懐かしい思い出だ。8年を経た現在でも,当時,苦楽を共にした仲間と,会社という枠を越えた交流が続いている。今後もこの“宝物"を大切にしてゆきたい。ポートビア'01神戸博会社のワク超え開催ヘー丸高谷平男●JTB/新宮支店長小さく載っていた。「オッ,出ているな」。数日前,10月20日からの年金ハフイ旅行のことが,どこかの新聞に紹介されるかもしれない, と聞かされていたので,あまり強い印象はなかった。夕方,帰宅してみると,「今日会社から何度も電話があった」と妻が言う。多分,今セールス中の仕事のことか,個人的な用件だろう,とさして気にも止めなかった。昭和55年(1980年)5月連体明けのある日,突然,ポートピア'81協会への出向を命ぜられた。配属先が観客誘致部。博覧会成否のカギは入場者数であることは明自である。同部の陣容は官民混成であったが,日頃第一線でしのぎを削ってきた同業者というライバル同士であったから,我々の間にマサツがなかったとはいいきれない。又,民間企業からの出向者は博覧会へかせぎに来ているんだと, あからさまに言う職員もいた。 しかし,入場予測1310万人,団体客400万人,これが観客部に与えられたノルマであった。期限が迫っている事もあり,対人関89薇い」胸い‐1‐ illiんヽ銀暉■ .罐