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概要

25_1964-1988

J978■■■ ■■目■ ||||||||成田空港開港幻と消えた開港式典披露深水大東●航空手荷物サービス/難細隊長昭和53年(1978年)3月26日,その日は日曜日であったが開港式典披露を4日後に控えて,総務課長以下課員全員が出社し,式典準備の最後の仕上げにかかって日まで大幅に延期した)。さて,準備をしていた式典披露とはどんなものであったか。開港日が3月30日と決定されると課長に式典準備の命が下った。種々検討の結果決定された最終案は次のとおりだった。日の目をみなかった式典披露だ。招待者約8000人。総理大臣をはじめ,用地提供者等を含む関係者は膨大な数となった。これは成田空港がいわゆる“難産の子"であり,数多くの方々の協力と御努力の賜であるとの証でもあった。空港周辺の参列者約6000人は式典参列者と披露宴招待者に分け,披露を午前と午後の2回旅客ターミナルビルで行う。VIPは羽田空港から特別機で運ぶ。また在京の招待者2000人については後日,都内のホテルで披露宴を開く―というものであっ来た時代でもあった。海外旅行高度成長の中で着実に市場での占有を図って来たジャルパックは,高品質,安心の旅として消費者に定着していたが,参加者を分析すると,ハネムーナー及び高額所得熟年層がその主たる顧客であり,必ずしも若年層へのアプローチが充分ではなかった。この様な状況を背景に旅行開発は,若年層をイメージ・ターゲットとしてDIY市場に的を絞ったフリータイム型新商品ZEROを新登場させたのである。ゼロ`スピリットと称し,「ZEROの旅は独立精神を重んじる。そのために,個人の企画力・行動力それに伴う責任を必要とする」として,従来のパツケージと差別化し,参加者を募った。宣伝販促面にも力を入れ,特にZEROた。過激派のグリラ活動が頻発するなかで,これだけの規模の式典を,警備当局をはじめ各種機関と協議しながら実施することは,まさに世紀の式典披露の名に値するものだった。「式典披露は中止だなあ」といった時の課長の複雑な表情に,今までの努力が無駄になったという落胆だけではなく,何かほっとした表情を垣間見たのは気のせいだったのだろうか。あるいは課長のことだから,その時すでに開港延期に伴って出てくる次の仕事の段取りが頭の中をかけめぐっていたのだろうか。何時かそのことを確かめてみようと思っている。報道陣の姿ばかりが目立つ(.87年4月)いた。そこに「管制塔に過激派が乱入した。玄関前は火の海である」との連絡が飛び込んできた。連日の徹夜で朦朧とした頭には,事の重大さに気が付くのに時間がかかつた。ハッとしたのは堀内茂課長のつぶやきを聞いた時であった。「開港式典披露は中止だなあ」。その声と苦渋に満ちた顔とは10年後の今も鮮やかに甦ってくる。開港式典披露が幻となった瞬間であつた(その後,政府は開港を5月20として採用したものである。昭和53年(1978年),旅行商品は高度成長と大衆化時代を迎え,需要を大幅に伸ばしていた。言葉,風俗,習慣などの違いにより,海外一人旅はまだまだ敬遠されていた時代ではあったが,若者達を中心として,旅のスタイルの変化が求められてもいた。即ち,すべてセットされているが故に利用されてきたパッケージ・ツアーが,またそれ故に嫌われはじめて∂δZERO登場DIY狙い衝撃のデビューi度1ユi太郎;● 旅行開発/販売第二部次長僕の前に道はない。僕の後に道はできる―高村光太郎の詩の一節である。DIY(Do it yourself)型旅行商品の先陣を切った「ZERO」の広告のキャッチフレーズカタログ(パンフレット)は現地情報に力を入れた結果,当時のカタログ・プームにも乗り,若者達の間でイメージ・カラーの黄色の表紙はファッションにまでなった。当時の旅行パンフンットとしては先鋭的でもあったことから,通産大臣賞を受賞し,制作の苦労がむくわれたことも印象に残っている。衝撃的デビューをしたZEROではあったが,現在は設定を中止している。しかしながらDIY型商品の先駆として大いに評価されるものであると自負するとともに,再登場の策を練っている現状である。燿:● 出奎′ゼロ・スピリット"を乗せて第l便出発_´ "‐ヽ´ノ畿ご口■`璽築●