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概要

25_1964-1988

19/7た直後の76年11月初めだった。当時の兼松學副会長の薦めで会議の準備業務を担当することになり,形だけの会議事務局が設置された。それまでの準備状況も不明のまま,JATAに日勤することになった。私とて国際会議について特に知識があるというわけでもなかったが,幸いに国際業務に長年携わり,何度か国際会議に参加したこともある。また,日本開催のPATA総会の受入委員会のメンバーとして協力した経験が大いに役立った。第1回JATA CONの開催が決まるまで,JATA内の意見は容易にまとまらなかった。会員すべての理解と協力が得られるかという懸念もあり,開催の機未だ熟せずとして反対の声も少なくなかった。76年12月の臨時理事会でも,このことが問題となり,熱心な討議が重ねられた。そうこうするうちに,11月の予定の日は日一日と迫る。然し準備は開催の最終決定を待つことなく着々と進められた。そして,やっと全会員の合意があって足並が揃ったのが10月19日。その後は会議運営組織の規約づくりをはじめ,内外関係先との連絡,連日の会合と資料整備,事務処理等に追いまくられた。こうしてお前?」Made in AmericaかもしれないそのHARDなヤツは,その時は堅く黙って私の金バサミに挟まれ地底に消えた。同年夏,パンナム退社。退社理由は簡単。シフト制の労働条件と自分の英語の能力不足ノミ。更に付け加えるなら,上司の英語の小言にすら反論できなかった自分に腹が立っての不満退社だった。PAの次の武者修業先にCXを選んだ。香港から必ずPOM(ポートモンスビー)に飛ぶと予知しての入社だったが,入社12年後の77年にPX(パプア・ニューギニア国営航空)の鹿児島乗り入れを事前に知り,すんなりPXに転職。戦死した父が世話になったパプア・ニューギニアの国営航空会社の日本・韓国地区支社長になれた。羽田の貨物担ぎ兼トイレマンが13不安と焦躁のうちに開会日を迎えたのであった。あの時の悲壮感は今でも忘れられない。日本の観光機関が主催する初めての国際会議だということで,その成否はわが国の旅行業界の帰趨を占うとされた第1回JATA CONは,海外の業界に大きな反響を呼んだ。同会議の成功はJATA会員の総力の結集と関係機関の積極的な援助と協力の賜であり,開催準備に種々の困難を克服して業務を遂行し得たのは,JATA先輩諸氏その他業界関係者各位の適切なご指導があったお蔭と思う。rCong「ess Da? y」も人気を博す■■■■第1回日本・国際観光会議海外へ日本の力をアピール金子義熙●元M嚇乗サービス協会/事務局長第1回JATA CON(日本。国際観光会議)の開催から11年余になる。私が運営委員会委員の委嘱を受けたのは,JNTOの海外勤務から帰国してJTBに復帰しPXが鹿児島へ乗入れパプア観光の夜明けを願つて岩渕宣輝0パブア・ニューギニア国営航空/日本・韓国・マイクロネシア地区支配人年後にオンラインキャリアーの支社のトップになったのだ。女性秘書一人のアシストでPAXとCARGOのセールスとアドミをこなすには,私のような精神分裂気味の人間が向いていたのかもしれない。然し,総代理店の全日空さんが頑張って下さらなかったら,半年で今の帝国ホテルの事務所を閉鎖していたかもしれない。特に苦い思い出はIATAのインスペクターに豪州のケアンズを積極的にプロモートしてくれた代理店が“ガサイレ"をされた事だった。CX時代,ブン屋さん達に追い掛けられ不眠不体の苦しみを一度味わっていたが,FUK/POM/CNSツアーの成功の裏には身を削る苦労もあった事を告白する。それにしてもパプア・ニューギニア観光の夜明けはまだ先の事になりそうだが,CX時代,オーストラリア旅行の開発に先鞭をつけたと自負する者として,今日のブームをつくった業界関係者に心から拍手を贈りたい。パプア・ニユーギニアもオーストラリアにあやかりたいものだ。ニ東京オリンピックの年(1964年=海外渡航自由化),私のエアライン人生が始まった。パンナムのフリート・サービス部の新兵としての初仕事は強運というか,幸運というか,B707のウンチ汲み取り屋さんだった。汚物をハンガー裏でダンプしながら思った。マンホールのグリルに跳ね返って外に飛び出した元気なウンコに独自。「オマエのウン籍は多分日本じゃないよな,アメリカか? とにかく,今,俺は嬉しいンだ/ 何か国際的な仕事にありつきたかった時,憧れの航空会社に入れたんだから。もっとも,一生オマエ達とお付き合いはご免だが,どうだい,∂5ヽ´´ヽ・やヽ.