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概要

25_1964-1988

1975ローマでバス事故悪夢のような,あの一瞬/星洋平●阪神醸議し/航空窄磐:本部 旅客営業部次長兼観班聯鞣課長これが死者1名,重軽傷者17名という,海外旅行バス事故としては大変に大きな事故の始終である。その後,会社や現地の人などによる必死の救援活動により,フラスカティの病院での治療,そして帰国となっていった。私はろっ骨を7カ所も破損するという重傷で,現地で1カ月,さらに日本で2カ月の入院を余儀なくされた。つらい入院だったが,フラスカティの病院のあの賑やかさと,親切な医師や看護婦,同室のイタリア人のことなど決して忘れることはできないだろう。イタリア人の温かさを本当に良く知ったのもこの時である。筆者が入院中に知り合ったイタリア人家族私にとって1975年(昭和50年)は既に遠い過去のことになりつつあるが,その中で14年近く経過した今も悪夢の様に思い起されるのはあの時,あの一瞬である。私が添乗したスペイン語研修旅行の一行23名は,アテネでの滞在の後ローマに入り,この日(1975年7月30日)はナポリ,ポンペイヘのオプショナルツアーの日であった。帰路,ポンペイを出てから降り出した雨は激しさを増し,この辺では珍しい土砂降りになっていた。ほとんどの人は既に心地良い居眠りに入っており,私は今夜のスケジュール等を気にしながら,こやみなく降る雨に何気なく不安な気持で前方を見やっていた。バスがもうローマヘだいぶ近付いたなと思われる地点でやや下り坂となり,谷間になっている処はかなりの水溜りだった。そこヘバスは,とくにスピードを落とすこともなく進入してまもなく, ドライバーの異常な仕草に気付き前方を見やったところ,まるでバスは泳ぐが如く斜め斜めへと流されており, ドライバーはなす術もないという状態であった。ガードレールも間近に迫り,さらにこのままぶつかってしまうしかないと解った時,私は思わず“危い"と叫んだ。窓ガラスは一瞬にしてこなごなにくずれ落ち,私は一転二転した後,空を飛ぶようにしてガードレールを越え土手にぶつけられていた。その瞬間,沈むように気を失っていた。近ツー業界初の上場業界の地位向上に先駆的役割菅井義雄"畿日本ツーリスト/続部長の上場は大変な狭き門であった。ただ,苦労の甲斐あって,上場の効果は大きかった。まず,会社の知名度と信用のアップにつながったことは当然として,社員の自覚も目に見えて違ってきた。よく当社の社風は“野武士"と称されるが,そんな荒々しさに良い意味での自律を効かせたとも思える。また,旅行業の社会的地位と信用向上に先駆的役割を果たしたとの自負もある。私が近畿日本ツーリストに入社した1959年(昭和34年)当時の年間海外渡航者数は,わずか5万人台に過ぎなかった。それを思うと,株式上場はまさに快挙であった。その後,我が社に続いて東急観光さんが上場したが,テン・ミリオン時代を迎えようという今日,旅行業界全体で上場企業が2社ではいかにも淋しい。なんとか2社に続いてもらいたいものだ。それが,業界のいっそうのイメージアップにつながつていくと信じる。 (談)海外渡航自由化(1964年)からおよそ10年。高度成長経済の波に乗り,急発展を遂げたわが国の旅行業界だが,産業としての基盤は当時(75年),まだまだ脆弱なものであるとの見方もあったかもしれない。それでも,1970年(昭和45年)の大阪万博を契機に,その社会的な信用は飛躍的に向上し,また旅行業各社が年々,力をつけてきていたのも事実である。いわば,将来への展望がようやく垣間見えてきたのが,この1975年あたりであったと思う。ちなみに1971年,「旅行あつ旋業法」が「旅行業法」に改正され,76年には当時の行政管理庁が「日本標準産業分類」において,「運輸あっ旋業」を「旅行業」に改めている。近畿日本ツーリストの東証。大証二部上場は,こうした旅行業界の地位向上に拍車をかけ,新たな飛躍と,新しい産業としての基盤確立を目指すものであった。当時,私は総務課長としてその渦中にいたが,上場へ向けて中心的な役割を務めておられた役員の方々の凄まじい意気込みが今でも鮮明に思い出される。上場を果たすまでのいきさつに関して,ここで詳しく述べるスペースはないけれども,オイルショックによる大型倒産などで上場審査が厳しくなっていた時期でもあり,75年に新しく上場した内国企業は我が社を含めわずか15社に絞られたと記憶している。旅行業者としての初めて83鶴4.′|額b色懸轟晰k‐l¬L1輩|:1苺1嗣制