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概要

25_1964-1988

9 ノ J^■IE一JL機ハイジャック恐怖と戦慄の87時間に遭遇昭和48年(1973年)7月20日,日本航空404便(パリーアムステルダムーアンカンッジー東京)は,スキポール空港(アムステルダム)を15:30に出発した。「ルツク・ョーロッパシルバー」の添乗員として,はじめての欧州添乗を無事終えようとしていることで,私は安堵の気持ちで一杯であった。日本時間では20日の23:30,そろそろ日が替わって翌日になる頃である。妻の田舎から私の家へ電話が入った。これが,私がハイジャックに遭遇したことを家族に知らせる第一報であった。当時3歳の長男はいま高校生,妻のおなかにいた二米嶋鉄夫●JTB/千葉支店長大平泰三●トチギ網予開発/社長男はことし高校進学というほど長い時間が過ぎた。ジャーナリスティックに書くならば,「乗客乗員145人,恐怖と戦慄の87時間」「パレスチナゲリラ日航機を乗っ取る」「機内爆発」「犯人の一人機内にて死亡」「宙に迷った脅迫状」「救命胴衣着用,地中海空からの観光」一こんな文字が躍ることになろぅ。じっさい,そんなショッキングな出来事だった。以来,現在までの間,個人的には会社の中では千葉から転勤し,各地の支店に勤務した後,また千葉支店で勤務することになった時,この稿の依頼があった。何か妙である。忘れた訳ではないが,余り思い出したくない事件ではあった。一緒に旅行した人達を,当時,添乗をともにした青井正雄君(現・関西営本主査)がお世話して,現在でも会合が開かれているという。彼でなければ出来ない立派なことだと思う。あのトゲ状のガムールの中を逃げて,空港の待合室でお客様を確認した時,彼がポケットに持っていたネームリストがどんなに役立ったか,今でも鮮明に思い出す。日々の仕事は犯人達の所業を忘れさせるが,この犯罪が許せるものではない。三度とこの種の犯罪がおきないよう予防に最大限協力することが私の務めだと信じている。ハイジヤツク検査は時間がかかり,時にはイライラすることもあるかも知れないが,この稿が添乗に出かける皆さんに少しでも役立てば幸いである。ンドプラッド氏と日の和田社長しかし,つくっても売れなければ旅は成立しません。ヴアリューツアーの存続は,旅を愛するエージェントマンの理解と協力によって成り立ちました。発売3年後,「ヴァリューを売らせていただきます」(石井成夫=現JTBワールド常務)と,JTBとの販売提携が決まり,急速に業績が向上し,ホールセーラーとしての認知を得る事が出来るようになりました。右手に夢を,左手でソロバンーこの恩師リンドプラッド氏の旅行業経営の理念は,今でも私の生き方であり,和田社長の「お客様に喜んで頂く旅の提供」は,今は亡き同社長への献花として続けて行きたいと思います。(元ヴィーヴル常務取締役)VALUE発売右手に夢,左手でソロバン1973年春,和田良一社長(当時37歳)がニューヨークヘ出発しました。南極旅行のパィォニアであるリンドブラッド氏に会うための旅立ちでした。ヴァリューツアーの出発点は,この和田社長とリンドブラッド氏との出会いです。既に欧米市場ではポピュラーであったsIT(スペシャル・インタンスト・ツアー)マーケットを対象とした旅行商品のホールセーラーとして誕生しました。当時の業界では,企画の斬新さとパンフレットの豪華な事が話題となり,驚異と不審の中でエージェントセールスが開始されました。社名は「ヴイーヴル」(フランス語「生きる歓び」の意)。ワールド・フイドな視点から生きる歓びを追求する旅づくリーこれがセールスマンの会社説明の合言葉でした。会長には牛尾治郎氏が就任し,「資本主義社会の中でも,智本主義的集団の会社に」と激励しました。また,「旅は感動の世界です。ヴァリューツアーは本物の旅だネ」(長瀬恒雄JTB前社長)「私はヴィーヴルという社名が好きだ。応援するョ」(山田学=現全日空ワールド代表取締役副社長)など,多くの業界諸先輩からのガンバンコールに支えられ,南極,北極,アフリカ大陸,セイシェル諸島,ブータン,チベット,シルクロード,揚子江,ガラパゴス,イースター島等々,ヴァリューの商品開発は次々と進められました。、欝感∫織郡81● ヽ罐・(111 11麒「J♪-.d・‐″7申綺″[