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概要

25_1964-1988

19/2JATA正式発足国家試験や弁済補償を受けもつ||| .■||| |||||‐ ■ _ |GHQは進墾註して間もない頃,その監督下の行政を円滑にすすめるため,高級官僚に対して一斉に一種の試験を行い,当時運輸省の課長補佐の私も受験して合格した。しかし私は戦前の昭和5年4月,鉄道省国際観光局が新設されたときから観光に奉じていたので,高級官僚試験合格による鉄道への任官を断わった。これが今日まで観光一途に来られた私の人生を位置づけた。GHQは引き続きガイドの如き職業の規制を単なる取締規則では不適当だからとて,全省庁のトップを切って通訳案内業法への改正を指示し,私はその準備,実態調査を担当し,法律成立忘れもしない昭和47年(1972年)1月24日の夜11時過ぎ,増加するグアム島観光客の水難事故対策■‐一 として救助訓練の最,‐` 中,日本人らしいストラグラー(浮浪者,敗残兵)が発見され,メモリアル病院に収容されるので立ち合つてほしいとの連絡を受けた。半信半疑で病院へ急行したものの,まさか。ノとぃうのが本音であった。しかし,過去の生存例もあり, もし本当なら大変なことだと思い直し,一刻も早く確認したい気持ちで病院の前に待機しつつ,次のようなことに思いを巡らせていた。①グアム支店に応援に来ている甲斐哲θθ後は第3回まで実施に当たり,貴重な体験をした。このことが改正旅行業法につながったと思う。即ちGHQの監督の進むにつれて旅行斡旋業法が施行され,旅行業法へと改正されていった。この改正に併行して3種の法定業務―――旅行業務取扱主任者国家試験,弁済補償業務,苦情処理―をJATAに行わせる案があった。しかも,その国家試験事務を他にさきがけて初めて代行させようとするもので,その対象がJATAであった。しかし私は3回のガイド試験を扱った経験を持つだけに少しも驚かなかった。このJATAとしての試験事務代行の実績は最初の3年は6203~ 8125夫氏(現。東急観光勤務)に事務所で待機してもらい,元日本兵発見のニュースが確認されたら,日本の三木惣介氏(同)に国際電話で第一報を入れる。②同僚の米谷寛美氏(現。JATA勤務)とともに病院でカルテを確認する。③アガナ警察にて事情聴取をする。そうこうするうち,25日の午前1時半頃になって,救急車が病院の前に停まり,そこから1人のストラグラーが降りてきた。一見,(失礼だが)類人猿に見えた。気をとり直し,皆で「ご苦労さまです」と声をかける。「どうも」という言葉が返ってきた。やはり日本人だ/手はずどおり名前と出身地を確認し,直ちに日本ヘ連絡。さらに発見状況を知るためアガナ警察へ飛んだ。人であったが,昨年(1988年)の如きは1万5032人に達している。といって懸念がなかった訳ではない。試験科目の数と内容,時間の配分などである。さりとて,ここでこれの詰めをやっていたのでは当年の実施に間に合わない。ともかく原案で3~ 4回やってみた上で見直しをしようということを,担当課長と話し合ってスタートした。爾来,十余年経過しても未だに改善もなく,むしろ日本観光学会からその必要性を指摘されている現状である。また,法定業務第二の弁済補償制は日本の産業界でも初めての一種の共済制で,会員にも業界にもプラスとなり,範とすべきものとして外国の業界から照会もあったことを付け加えておきたい。大林正二●元日フ覇蔚業協会′ 里事・事務局長祠一〔(ぽ鳩‐´    盤″ヽマ0‐ 71― 機FF‥グアム島で横井さん奇跡の生還に立ち会う尿免宣昭0東急観ル/東京修学薦テセンター所長明けて午前11時30分から,当時のカマチョ知事公邸で記者会見が開かれ,民間レベルの代表として出席した。記者会見は極めてドラマチックであった。この歴史的会見の状況を記録するためカメラと録音テープを用意し,それを当日の午後便にて東京へ託送した。以上が,あの横井庄一さん発見の一部始終である。当時は報道機関が駐在員を置いているケースは少なく,この一件がマスコミによる情報取材合戦の幕開けの契機となったといっても過言ではあるまい。また,個人的には青春時代の最も印象深い思い出の一つであり,昭和史の劇的な―シーンに自分が携わったのだという想いは今も鮮烈に残っている。√ヽヽ■.1一\ヽ・轟一菫】彎鑑颯鐵・´ ル)蜃會ド